3, アメリカの発展と膨張


 1776年7月4日に、イギリスからの独立を宣言したアメリカ。その後、独立戦争に勝利し、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を正式に承認します。

 アメリカはその後も領土拡大と移民による人口増加を続け、20世紀には世界の超大国となります。このページでは、その後のアメリカ音楽にとっても重要ないくつかの都市と、アメリカ史のキーワードに沿って、歴史を振り返りたいと思います。

ニューヨーク

 まずは、音楽のみならず数多くのアメリカ文化を生んだ国際都市、ニューヨークの歴史を振り返ります。

 現在のニューヨーク州に、最初に植民地を建設したのはオランダでした。オランダは1614年にフォート・ナッソー(現在のニューヨーク州オルバニー)を建設し、1626年にマンハッタンを原住民から買い取り、ニューアムステルダムを建設します。オランダはここを毛皮貿易の拠点として、利益をあげます。

 しかし、徐々に植民地を拡大するイギリスとの争いに敗れ、1664年にニューアムステルダムはイギリスにより征服。ニューヨークと改称されます。それから、1776年のアメリカ独立宣言まで、ニューヨークはイギリス領として統治されます。

 そのころのマンハッタンには、イギリス人とオランダ人の他に、フランス、ドイツ、スウェーデン、ユダヤ系、アンゴラからの奴隷などが、すでに多様な人種社会を形成していたと言われています。その理由のひとつは、もともとオランダ商人たちの毛皮貿易の拠点であり、多様な人々が集う場所であったからでしょう。

 1825年に、ハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が完成すると、商取引の中心地となり、アメリカの商業・経済の発展と共に、ニューヨークも発展を続けていきます。

 1914年に、南部から北部への「アフリカ系アメリカ人の大移動」(The Great Migration)が始まると、ニューヨークはその主要な行き先となり、1916年までにニューヨークに住むアフリカ系移住者は、北アメリカで最多となります。

 移住者の多くはマンハッタンのハーレムに住み、1920年代には「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる文化活動、1940年代にはジャズのビバップが花開きます。

 その後も、NYパンク、ノー・ウェーブ、ヒップホップなどの文化が栄えたのは、多種多様な人々が暮らし、アンダーグラウンドな土壌も培ってきた、ニューヨークならではと言えるでしょう。

シカゴ

 続いて、1950年代にはシカゴ・ブルースを生み、1970年代にはハウスを生み、多数のUSインディーロックの重要レーベルも居を構える、シカゴの歴史を振り返ります。

 もともとポタワトミ族という先住民族が暮らしていたこの場所は、1795年にアメリカ領となりますが、1833年の時点でも人口はわずか200人程度。しかし、1848年にイリノイ・ミシガン運河、1852年にイリノイ・セントラル鉄道が完成すると、内陸交通の中心地として急速に発展していきます。

 当時シカゴの主要産業は農業。農業州の中核都市として、世界最大の穀物取引市場となりますが、20世紀初頭に、北部の工業化にともない、南部から多くのアフリカ系住民が流入すると、シカゴの多民族的性格が強まっていきます。また、禁酒法時代(1920-1933年)には、酒の密造・密売をとりしきる暗黒街のボス、アル・カポネが暗躍したことでも有名。

 雑多な民族が混在する自由都市であることが、シカゴの特徴であり、魅力であると言えるでしょう。

ルイジアナ購入

 次に、ルイジアナ購入について、取り上げます。1776年にアメリカが独立を宣言したとき、東海岸沿いに13の州ができあがっていました。その後、アメリカは西へ向かって、領土を拡大していくことになります。

 イギリスが東海岸沿いを中心に植民地を建設していった一方で、フランスはまず現在のカナダのケベックに拠点を築き、そこからミシシッピ川流域の広大な地域を領有します。フランス領ルイジアナです。

 1803年、フランスはイギリスとの戦費に充てるため、ルイジアナをアメリカに1500万ドルで売却します。このルイジアナ購入によって、アメリカの領土は一気に当時の2倍となりました。そして、ジャズの発祥地とされるニューオーリンズも、アメリカ領土になります。

西斬運動

 先にも述べたとおり、イギリスがアメリカ大陸に植民地建設を始めたのは、東海岸からです。それから、アメリカ合衆国独立後も、西へ西へと領土を拡大していくことになります。

 これを「西漸運動」と呼び、1803年のルイジアナ購入、メキシコから独立したテキサス共和国の1845年の併合など、西に領土を拡大。そして、1848年の米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)の勝利によるカリフォルニアの獲得によって、遂に西海岸に達します。

ロサンゼルス

 ロサンゼルスは、1781年にスペインによって建設されました。その後、1821年にスペインからメキシコ帝国が独立し、ロサンゼルスもメキシコ帝国の一部となります。そして、1846年から1848年の米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)におけるアメリカの勝利により、ロサンゼルスを含めたカリフォルニアはアメリカ領となります。

 1850年の時点での人口は1600人程度。しかし油田発見と、それに伴う石油化学工業や航空産業の発展などにより、1900年を迎える頃には人口は10万人を超えます。

 さらに、ハリウッドに代表されるエンターテイメント産業も発達。当時の映画撮影には高い光度が必要であり、雨が少なく、晴れ渡ることの多いロサンゼルスの気候が、撮影に最適であったためです。

 現在のUSインディー・シーンにおいては、エピタフなど多数のレーベルが居を構え、特にパンク系の強い都市になっています。

南北戦争と奴隷解放

 最後に、アメリカ史上非常に重要であり、アメリカ音楽の発展にも大きな影響を与えた、南北戦争を取り上げたいと思います。

 アメリカ国内では「The Civil War」と呼ばれるこの戦争にたいして、日本語では「南北戦争」という言葉があてられています。この「南北戦争」という呼称が示すとおり、アメリカ南部の諸州とアメリカ北部の諸州の間の戦争です。

 原因となったのは、南部と北部の経済体制の違いでした。南部では1607年に現在のヴァージニア州への植民が始まり、温暖な気候と肥沃な大地を利用した、タバコ栽培が始まります。

 大規模な農園は拡張を続け、ヨーロッパからの移民だけでは働く人手が足りず、植民開始から12年後の1619年には、早くも奴隷の使用が始まった記録があります。やがて主力商品が綿花に取って代わり、南部は奴隷制を前提とした農業を、主要産業として発展していくのです。同時に、アフリカからの奴隷の輸入も続きます。

 それに対して北部は、農業に適さない寒い気候だったこともあり、工業を中心に発展していきます。そのため、奴隷制が確立することはなく、南部に比較すると、北部に暮らすアフリカ系住民の比率は、圧倒的に低いものでした。しかし、北部でも19世紀に入ると工業が急速に発展し、流動的な労働力を欲するようになります。

 こうして、奴隷制を敷く農業中心の南部、奴隷制を持たない工業中心の北部の対立が深まり、1861年についに戦争が始まるのです。もともとは奴隷解放を、一義的な目的とした戦争ではありませんでしたが、戦争が長期化するなかで、世論やアフリカ系住民を味方につけるため、北部側は奴隷解放宣言を発表します。

 1865年に戦争は終結し、南部の奴隷は解放されます。(実際には、解放されても働き口は限られていて、結局は以前と変わらぬ状況のままだという人も多数いたのですが…)

 そして、この奴隷解放によって、南部のアフリカ系住民の移動や活動が、以前よりも自由になり、ブルースをはじめとした彼ら固有の音楽の発展・拡散を促すことになります。

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