4, アメリカ音楽の歴史


 このページでは、アメリカ音楽の大まかな流れと歴史を、時間軸に沿いながらご紹介いたします。

 1783年にイギリスからの独立を果たしたアメリカ。しかし、当時はまだ政治的にも経済的にも不安定で、国家としての足固めの時期がしばらく続きます。

 19世紀に入り、国内の産業が発展し、人々の生活にも余裕が生まれると、徐々に文学や演劇、そして音楽文化が育ってきます。もちろん、それ以前にも宗教音楽や労働歌(ワーク・ソング)など、人々の生活に密着した音楽は存在していたでしょう。

 しかし、アメリカ固有の音楽が育ち始め、娯楽として音楽を楽しむ構造ができあがった、という点が重要です。当時はCDやテレビなどのメディアは存在しませんから、人々が音楽を楽しむ場所は、主に劇場ということになります。

ミンストレル・ショー

 そんななか、19世紀半ばに「ミンストレル・ショー」と呼ばれる舞台芸能が、アメリカ国内で大流行します。これは、顔を黒く塗った白人が、踊りや音楽を交えた寸劇をおこなう、というものです。ここでは深入りしませんが、差別的な要素を含んだエンターテインメントでした。

 ミンストレル・ショーで使用される音楽は、最初はヨーロッパのオペラなどを下敷きにしたものが多かったものの、徐々にオリジナルの作曲家も生まれ始めます。その1人が、「おおスザンナ」や「ケンタッキーの我が家」を作曲し、「アメリカ音楽の父」とも呼ばれるスティーブン・フォスターです。

 前述したとおり、差別を助長する面もあるミンストレル・ショーは、19世紀末までには人種風刺を含まない「ヴォードヴィル・ショー」に取って替わられます。ヴォードヴィル・ショーも、ミンストレル・ショーと同じく、踊りや手品、漫才、音楽などを披露する舞台芸能です。

シート・ミュージック

 少し話題を変えて、シート・ミュージックをご紹介したいと思います。「シート・ミュージック」という言葉自体は、手書きあるいはプリントされた楽譜を指す言葉です。

 ラジオやレコードが普及する前の19世紀のアメリカでは、このシート・ミュージックが音楽を流通させる手段でした。つまり、現在CDやダウンロードで音楽が流通しているように、当時の楽曲は印刷されたシート・ミュージックのかたちで流通し、購入した人はそれを自宅で演奏し、音楽を楽しんでいたのです。

 特にニューヨークでは、楽譜関連の会社が集まる一角が出現し、その場所は「ティン・パン・アレー」と呼ばれるようになります。ティン・パン・アレーについては、後述いたします。

ブルース

 ブルースは南北戦争が終結し、奴隷解放後の19世紀後半ごろに、アフリカ南部で起こった音楽形式と一般的に説明されます。その起源は、奴隷として西アフリカから連れてこられた人々が歌う、ワーク・ソングやフィールドホラーから発展したものと言われています。ワーク・ソングは、労働の際に呼吸を合わせるために歌われる歌、フィールドホラーは、労働の際の叫び声のようなものです。

 ブルースの特徴として、ブルー・ノートと呼ばれるフラットした音程、12小節AABの形式、日常の出来事や感情を表現した歌詞などが挙げられます。これらの音楽的特徴の一部は、ジャズやロックンロールへも影響を与えます。

 ブルースがポピュラリティを得るきっかけになったのは、1903年のW・C・ハンディによるブルースの「発見」です。ミシシッピ州を旅行中だった作曲家のW・C・ハンディは、タトワイラーの駅で偶然ブルースを演奏するひとりの黒人と遭遇します。ハンディは、このとき耳にした音楽をもとに作曲した曲を発表し「ブルースの父」と呼ばれるようになります。

 1920年代以降アメリカではレコード産業も発展し、1920年にブルース初のレコーディングと言われるメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が録音。その後、チャーリー・パットンやロバート・ジョンソンなどが発見され、ブルースのレコーディングが次々とおこなわれます。

 南部で起こったブルースは徐々に北上し、各地で独自のスタイルを作り上げながら発展していきます。シカゴでは、1950年代にエレキ・ギターなどを用い、ブルースが電化。1960年代には、ブルースの影響は、イギリスのローリング・ストーンズやクリーム等へ引き継がれていきます。

カントリー・ミュージック

 ブルースが、南部のアフリカ系住民から起こった音楽とされるのに対して、カントリー・ミュージックは、ヨーロッパの民謡がアメリカ南部で発展した音楽、と説明されます。特に、スコットランドやアイルランド民謡の影響が濃い、とも言われます。

 カントリー・ミュージックのレコーディングが始まったのは1920年代。当時は「ヒルビリー」「ウェスタン」などと呼ばれていました。1940年代には「カントリー・ミュージック」という呼称が定着し、ロックンロールが誕生する直前の1950年代初頭には、ハンク・ウィリアムズというスターも誕生します。

ティン・パン・アレー

 先ほど、シート・ミュージックのところで触れましたが、ティン・パン・アレーとはニューヨークの楽譜関連の会社が集まっていた一角を指す言葉です。この一角が形成され始めたのは1890年代、まだレコード普及前で、当時はシート・ミュージックを販売する会社が集まっていました。ティン・パン・アレーはアメリカの音楽産業の中心地となり、レコード普及後も影響力をますます強めていきます。

 ティン・パン・アレーの特徴は、その徹底した分業制です。シート・ミュージックを販売していた時代から、作詞家、作曲家、編曲家などを別々に用意し、あたかも工場の流れ作業のように、システマティックに音楽を制作していきました。

 レコードが普及し、第二次大戦後には、キャピトル、コロンビア、デッカ、ビクター、マーキュリー、MGMの「六大メジャー」と呼ばれるレコード会社が業界を牛耳るようになり、ティン・パン・アレーはこれらのメジャー・レーベルに多数の楽曲を提供することになります。

次のページ「5, ロックの誕生と歴史」へ