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13, グランジ革命 (1990年〜)


目次
イントロダクション
MTVの問題点
LAメタル
グランジの誕生
サブ・ポップ
グランジ・ブームの到来
レーベル紹介
ディスク・ガイド

イントロダクション

 1980年代。メインストリームでは、1981年に開局したMTVが全盛を迎え、メジャー・レーベルはますます巨大化。

 メジャー・レーベルと契約し、ビッグ・ヒットを飛ばすロック・バンドも誕生します。音楽はテクニカルで洗練され、視覚的にも華やか。巨大なスタジアムでコンサートをおこなうメジャー・バンドの一部は、アリーナ・ロック(Arena rock)、産業ロック(Corporate rock)と呼ばれるようになります。

 いずれも、60年代のロックが持っていたカウンター・カルチャーとしての魅力が薄れ、商業化していくロックに対する、嘲笑的なニュアンスを含む言葉です。

 一方で、70年代後半から、インディペンデント・レーベルやカレッジ・ラジオが温床となり、メジャーとは一線を画した音楽性を持つインディーズ・シーンが、全米各地で形成。

 商業化とエンターテインメント化の行きすぎたメジャーの音楽よりも、インディーズ的な音楽を好む層が、若者を中心に着実に増加していきます。

 そして、1990年代に入るとグランジ・ブームが勃発。着火点となったのは、それまでは文化の中心地ではなかった、西海岸のはずれの都市・シアトルのインディー・シーン。

 シアトル拠点のインディー・レーベル、サブ・ポップからデビューしたニルヴァーナ(Nirvana)は、1991年リリースの2ndアルバム『Nevermind』でメジャーへ進出し、現在までに米国内だけで1000万枚を超える、驚異的なセールスを記録。

 ニルヴァーナ以外にも、多くのバンドがメジャー・レーベルと契約し、それまで地下で育まれてきたインディーズ的な音楽が、一気に地上のメインストリームへ浮上します。

 このような現象が起こった要因のひとつは、それまでインディーロックを聴いてこなかった層にも、メジャー的音楽に対する不満が、潜在的に存在したこと。

 このページでは、80年代に全盛を極めたMTV、そしてロックのメインストリームとなったLAメタルの問題点を指摘し、その後でカウンターとして、グランジおよびオルタナティヴ・ロックが浮上する過程をご紹介します。

MTVの問題点

 前述のとおり、1981年に放送を開始し、80年代を通して音楽産業の中心となったMTV。もちろん、売れているから悪い、金を稼いでいるから悪い、というわけではありません。

 それでは、MTVの何が問題なのか。端的に言えば、音楽よりも視覚性が重視されていることです。つまり、華やかな映像で圧倒し、音楽はBGMに過ぎない。音楽の良し悪しよりも、映像も含めたエンターテインメント性が重視されているということ。

 もちろん、映像と共に音楽自体も優れている、マイケル・ジャクソンのような人物もいたわけですが、テレビを通して魅力を伝えるためには、視覚的に分かりやすいものが好まれます。

 そのため、音楽よりも映像を売り物にする、音楽のクオリティよりもルックスを重視するシステムが、出来上がっていったのです。退屈ならチャンネルを変えられてしまう、テレビというメディアの特徴も、この流れに拍車をかけたのでしょう。

 ルックスの悪い地味なバンドや、反抗的な歌詞を持ったパンク・バンドなどは、メジャー・レーベルと契約してMTVの放送に乗ることはなく、即効性のある分かりやすいルックスやパフォーマンスを持ったバンドがメジャーに進出し、ビッグヒットを飛ばすことになります。

LAメタル

 そんなMTV全盛の時代において、ロックのメインストリームとなったのがLAメタル。

 「LAメタル」という用語自体は、日本でのみ流通する独自の呼称ですが、80年代にロサンゼルスを拠点にするロック・バンドが、多数メジャー・デビューし、活躍したのは事実です。

 LAメタルに括られるバンドに共通するのは、派手な髪型や、華やかな衣装。テクニカルな音楽性と、ゴージャスなサウンド。

 彼らはまさに、MTVの申し子と呼ぶべきクオリティを備えていました。というより、MTVに合わせて、このようなロックが発展していったと捉えるべきでしょう。

 即効性を求められるテレビというメディアを、最大限に利用するため、できる限り髪を伸ばし、できる限り髪を逆立て、できる限り派手な衣装を着て…といった具合に、ルックスはどんどん浮世離れし、演出はエスカレートしていきました。

 さらに音楽面においても、「LAメタル」という呼称のとおり、ハードロックやヘヴィメタルが下地にしながら、分かりやすい速弾きやギターリフ、音圧の高いサウンド・プロダクションなど、やはり即効性のあるアレンジに傾いていきます。

 そして、肝心のミュージック・ビデオ。バンドは派手な衣装を着こみ、ゴージャスな美女をはべらせ、「セックス、ドラッグ、ロックンロール!」を具現化したようなビデオが、数多くあります。

 一見すると、既存の価値観へのカウンターとして機能する、ロックの特徴を多分に含んでいるようにも見えます。しかし、実際は既存の価値観への反抗に基づくのではなく、ただ過激さを追い求めたもの。

 60年代から70年代にかけてのカウンター・カルチャーとしてのロックとは異なり、いわばロックの過激さを、商品としてパッケージ化したものに過ぎないとも言えるでしょう。

 こうして、華麗なルックスと、過激なイメージ、ハードロックをポップに寄せた音楽性を持ったバンドが、セールス的には80年代ロックのメインストリームとなります。

グランジの誕生

 こうして形成されていった、メジャー的なロック。80年代をとおして、メジャー・レーベルが配給するロックは、音楽的に新しいものは乏しく、画一化されていきます。

 前述したように、まずはMTVを筆頭としたメディアで耳目を集めるため、重要視されたのは分かりやすいパフォーマンス。そこには、前衛的な音楽は必要とされず、70年代までのロックを焼き直した、保守的なロックの方が好まれました。

 ただ、実際に大衆が好んでいたというよりも、メジャー・レーベル側が音楽の先進性よりも、華やかなエンターテインメント性の方を、より重要視していたということです。

 そのため、LAメタルとは異質の過激さを持ったハードコア・パンクや、あまりにもアヴァンギャルドなノー・ウェーヴなどが、メジャーでメガヒットを生むことはありません。

 同時に、ニューヨークやロサンゼルスなど大都市ではない、スカウトの目の届かない地方で活動するバンドにも、メジャーへの道はほぼ閉ざされていました。

 しかし、彼らは自らレーベルを起こし、MTVとは対照的なカレッジ・ラジオ局とも連携。1980年代末には、全米各地に個性的なインディー・シーンが生まれていました。

 グランジ・ブームの着火点となった、ワシントン州シアトルもそのひとつ。アメリカ西海岸の北端に位置するシアトル。現在のワシントン州が、ワシントン準州としてアメリカ領土となったのは1853年。州として認められたのは1889年です。

 歴史も浅く、グランジで脚光を浴びるまでは、シアトルが文化の中心地として注目されることは、まずありませんでした。(ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)は同地の出身ですが、イギリスに渡り本格的な音楽活動をしています。)

 この街でも、1980年代をとおして、多くのインディー・バンドが生まれ、やがて「グランジ」と呼ばれるジャンルが誕生します。グランジ(Grunge)とは、「薄汚い」という意味の形容詞「grungy」が、名詞化したもの。まさに、MTVやLAメタルに代表されるメジャー・シーンへの、カウンターとなる名称です。

 グランジの特徴は、シンプルに激しく歪んだギター・サウンドに、内省的な歌詞。ファッションも、薄汚れたTシャツやジーンズに、ボサボサの髪。まさにグランジー(薄汚れた)なジャンルです。

 整ったパワフルなサウンド・プロダクションに、まばゆい衣装、スプレーで逆立てた髪型のLAメタルとは、対極にあると言えます。

サブ・ポップ

 シアトルのインディー・シーン、およびにグランジ・ブームを牽引する原動力となったのは、同地に設立されたインディペンデント・レーベル、サブ・ポップ(Sub Pop)です。

 サブ・ポップの始まりは1980年。ワシントン州オリンピアにある、エバーグリーン州立大学(The Evergreen State College)の学生だったブルース・パヴィット(Bruce Pavitt)が、インディーロックの情報を扱うファンジンの発行を始めます。

 そのファンジンの名前が、サブタレニアン・ポップ(Subterranean Pop)。のちにサブ・ポップと改称され、発行を続けます。同誌の売りは、インディーズ・バンドの音源を収録した、コンピレーション・カセットを付属していたこと。

 1983年には、オリンピアからシアトルへ移転。1986年に、コンピレーション・アルバム『Sub Pop 100』をリリース。この作品がきっかけとなり、レーベルとしての活動を開始。

 ちなみに同作のカタログ・ナンバーは「SP 10」。同作以前にリリースされた、ファンジン付属のカセットテープが、1番から9番までということになっています。

 1987年に、ジョナサン・ポーンマン(Jonathan Poneman)が運営に参加。1988年4月には事務所を構え、パヴィットとポーンマンのコンビにより、レーベルが本格的に活動を始めます。

 前述の『Sub Pop 100』に続き、1987年にリリースされたのは、シアトルで結成されたバンド、グリーン・リヴァー(Green River)のEP『Dry As A Bone』。

 同バンドは1988年に解散しますが、メンバーは二手に分かれ、パール・ジャム(Pearl Jam)とマッドハニー(Mudhoney)を結成。

 パール・ジャムがメジャーに進出する一方で、マッドハニーはサプ・ポップに残留。サブ・ポップは、その後もニルヴァーナやサウンド・ガーデン(Soundgarden)など、地元ワシントン州のバンドを中心に、リリースを重ねていきます。(この3バンドも、やがてメジャーに移籍するのですが…)

 そして、80年代後半から90年代前半にかけてのグランジ・ブームを、牽引することになります。

 後述するニルヴァーナのインパクトも大きいのですが、サプ・ポップがブームを作り上げることができた理由は、他にもあります。

 まず、カセット付きのファンジンからスタートしたのも示唆的ですが、当初からキュレーター的なセンスを持っていたこと。バンドのファンではなく、「このレーベルなら信頼できる」というレーベルのファンを生み出すことになりました。

 もうひとつは、イギリスの『Melody Maker』誌の記者をシアトルに招待し、記事を書かせたこと。シアトルという、それまではアメリカ国内でも、音楽の話題で取り上げられることのない地方都市が、海外メディアに注目されるきっかけとなりました。

 以上、いくつかの理由とタイミングが重なり、サブ・ポップはアメリカを代表するインディペンデント・レーベルへと、成長していきます。

グランジ・ブームの到来

 さて、先述したように80年代は、巨大な資本が投入されたMTVや産業ロックが、メインストリームを支配する時代でした。

 しかし、90年代に入ると、それまで地下の音楽だったグランジが、地上のメインストリームに浮上。革命あるいはパラダイム・シフトと呼ぶべき、シーンの変化が生じます。

 その中心となったのが、シアトルのインディーズ・シーン。そして、グランジ革命の象徴として扱われるのがニルヴァーナです。

 シアトルがグランジ・ブームのきっかけを作ったのは事実ですし、ニルヴァーナがメジャー・デビューし驚異的なセールスを記録したのも事実。

 しかし、いきなりシアトルおよびニルヴァーナが価値観をひっくり返した、というわけではなく、80年代からパラダイム・シフトに繋がる動きがいくつもあり、結果として90年代前半にシアトルをきっかけにシーンが一変した、ということです。

 グランジ・ブームのきっかけとなった要素を2つ挙げるなら、まずは80年代を通してメジャー・レーベルが売り出すロック・バンドの質が画一化し、多くの人が潜在的にウンザリしていたこと。そして、もうひとつには、全米各地でメジャーに迎合しない個性的なインディーズ・シーンが生まれていたことです。

 ニルヴァーナが1991年に『Nevermind』でメジャー・デビューする前から、ニルヴァーナと同じくシアトルを拠点にしていたサウンドガーデン(Soundgarden)が1989年にメジャー・デビューしたり、アングラの帝王ソニック・ユースが1990年にアルバム『Goo』でメジャーへ移籍したり、という動きが既にありました。

 ちょうど、大衆がメジャーの音楽に飽き飽きしていたタイミング、メジャー・レーベルが注目するほどに各地でインディーシーンが盛り上がるタイミング。その2つが90年代の前半にカッチリと組み合ったわけです。

 さて、そんなわけで80年代の後半から、それまでインディーズ・レーベルに属していたバンドが、少しずつメジャーへ進出。

 サブ・ポップに所属していたニルヴァーナもメジャーへ移籍し、前述のとおり2ndアルバム『Nevermind』は空前の大ヒット。その後は、青田買いに近いかたちも含め、続々とグランジにカテゴライズされるバンドが、メジャー・デビューを果たします。

 こうして、グランジは一気に地上に浮上。音楽シーンのメインストリームとなります。同時に、それまでメジャーの売れ線だったバンドの一部は、前時代的でダサい、というレッテルを貼られることに。

 ニルヴァーナと対極の存在に位置付けられ、前時代のロックの代表のように扱われることになったのが、ガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N’ Roses)です。両者は、旧世代と新世代の対立の象徴となります。

 ニルヴァーナのカート・コバーンが、ガンズ・アンド・ローゼズのサポート・アクトの要請を断るなど、否定的な態度をとり続けたことが、その要因。

 ロサンゼルスで結成され、LAメタルの文脈で語られることもあるガンズ・アンド・ローゼズ。確かに、汚らしい格好で時に陰鬱なテーマの曲を歌うグランジとは、相容れない部分もあるのですが、ハード・ロックを基調にした音楽性には、共通点も認められます。

 グランジおよび一部のインディー・ロックが浮上できたのは、それまでのメジャー的な音楽と全く異質というわけでなく、共通する部分も少なからずあったためでしょう。

 つまり、それまでメジャー的なロックを聴いていた層にも受け入れられやすく、なおかつ彼らがメジャーの音楽には足りないと感じていた要素を、グランジ勢は備えていたために、ニルヴァーナをきっかけとして、グランジ革命とでも呼ぶべきパラダイム・シフトが起きたのです。

 視点を変えれば、それまでLAメタルを聴いていた層が、グランジへと寝返ったとも言えます。そのため、例えばニルヴァーナの『Nevermind』を購入した人々の多くは、それまでインディー・ロック的な音楽を聴いてこなかった層ということ。

 このように、リスナーが好む音楽性と、バンドが志向する音楽性の間には、当初から乖離があったために、グランジ・ブームも短命に終わったのです。

 グランジ・ブーム終焉の象徴も、やはりニルヴァーナ。ギターとボーカルを務めるカート・コバーンが、1994年に自ら命を絶ち、グランジ・ブームも終息へ向かいます。

 これもカートの死がグランジ・ブームを終息させたと言うよりも、ちょうどグランジ・ブーム衰退のタイミングと、彼の死が重なったと見るべきでしょう。

 グランジの急激なブームのために、上記で説明したようにリスナーとバンドの間に価値観の相違が生まれ、ニルヴァーナはその被害者の筆頭だった、とも言えると思います。

レーベル紹介

 サブ・ポップ以外に、グランジ・ブームを盛り上げたインディー・レーベルを、ふたつ紹介しておきましょう。

 まず一つ目は、サブ・ポップと並んでシアトル・シーンを牽引したC/Z。1985年に設立された同レーベルは、1986年にリリース第1弾として、コンピレーション・アルバム『Deep Six』を発売。

 同作には、グリーン・リヴァー、メルヴィンズ(Melvins)、スキン・ヤード(Skin Yard)、サウンドガーデンなど、当時のシアトルを代表するバンドの楽曲が収録。

 その後も、7イヤー・ビッチ(7 Year Bitch)、ビルト・トゥ・スピル(Built To Spill)、シルクワーム(Silkworm)など、シアトルおよびグランジの枠だけにとどまらず、リリースを重ねました。

 もうひとつは、同じくシアトルに設立されたポップラマ(PopLlama)。当時のシアトルを代表するプロデューサーである、コンラッド・ウノ(Conrad Uno)によって、1984年に設立されました。

 シアトルにあるレコーディング・スタジオ、エッグ・スタジオ(Egg Studios)のオーナーでもあるコンラッド・ウノは、ポップラマ以外の作品も含め、プロデューサーとしても多くの作品に携わっています。

 ポップラマからは、ファストバックス(Fastbacks)、ガール・トラブル(Girl Trouble)、ザ・ポウジーズ(The Posies)、ザ・ヤング・フレッシュ・フェローズ(The Young Fresh Fellows)などの作品がリリースされました。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンドのディスクガイドです。

Nirvana “Bleach” (1989 Sub Pop)

ニルヴァーナ 『ブリーチ』 (1989年 サブ・ポップ)

 シアトルのインディーズ・レーベル、サブ・ポップからリリースされた、ニルヴァーナの記念すべき1stアルバム。メジャー・デビュー後の2枚のアルバムに比べると、アングラ臭が充満したサウンドになっています。

 そのため、敬遠されることも多いのではないかと思いますが、静と動のコントラスト、当時のシアトルのライブハウスの空気がそのまま閉じ込められたかのような空気感など、グランジの名盤と言って良いと思います。個人的には、メジャーでの2枚と同じぐらい、本作を推します。

 


Nirvana “Nevermind” (1991 DGC)

ニルヴァーナ 『ネヴァーマインド』 (1991年 DGC)

 ゲフィン・レコード(Geffen Records)傘下のレーベル、DGCよりリリースされた、ニルヴァーナのメジャー・デビュー作。プロデューサーを務めるのは、ウィスコンシン州で結成されたロック・バンド、ガービッジ(Garbage)のメンバーとしても知られる、ブッチ・ヴィグ(Butch Vig)。

 サブ・ポップからリリースされた前作『ブリーチ』と比較すると、音圧が高くパワフルで、良くも悪くもメジャー的なサウンド・プロダクション。しかし、それまでのメジャーには無かった陰鬱さも同居し、ロックのダイナミズムと作家性が、高い次元で両立された1作です。

 


Nirvana “In Utero” (1993 DGC)

ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』 (1993年 DGC)

 前作『Nevermind』と同じくDGCからリリースされた、ニルヴァーナの3rdアルバムであり、最後のスタジオ・アルバム。プロデューサーおよびサウンド・エンジニアを務めるのは、スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)。

 アルビニ特有の生々しいサウンド・プロダクションが光る名作。1曲目の「Serve The Servants」から、唸りをあげるノイジーなギター、地を這うようなベース、立体的なドラムが、その場の空気感まで含め鳴り響きます。

 


関連バンド作品の個別レビュー

The Afghan Whigs – アフガン・ウィッグス
Up In It (Sub Pop 1990)
Congregation (Sub Pop 1992)

Built To Spill – ビルト・トゥ・スピル
Ultimate Alternative Wavers (C/Z 1993)
There’s Nothing Wrong With Love (Up 1994)

Dinosaur Jr. – ダイナソーJr.
You’re Living All Over Me (SST 1987)
Bug (SST 1988)

Dwarves – ドワーヴス (ドゥワーヴス)
Blood Guts & Pussy (Sub Pop 1990)
Thank Heaven For Little Girls (Sub Pop 1991)
Sugarfix (Sub Pop 1993)
The Dwarves Are Young And Good Looking (Epitaph, Theologian 1997)
Come Clean (Epitaph 2000)

Fastbacks – ファストバックス
…And His Orchestra (Popllama 1987)
Very, Very Powerful Motor (Popllama 1990)
Zücker (Sub Pop 1993)
Answer The Phone, Dummy (Sub Pop 1994)
New Mansions In Sound (Sub Pop 1996)

Love Battery – ラヴ・バッテリー
Between The Eyes (Sub Pop 1991)
Dayglo (Sub Pop 1992)

Mudhoney – マッドハニー
Mudhoney (Sub Pop 1989)
Every Good Boy Deserves Fudge (Sub Pop 1991)

Nirvana – ニルヴァーナ
Bleach (Sub Pop 1989)

Sebadoh – セバドー
Bubble & Scrape (Sub Pop 1993)
Bakesale (Sub Pop 1994)
Harmacy (Sub Pop 1996)

TAD – タッド
God’s Balls (Sub Pop 1989)
8-Way Santa (Sub Pop 1991)

Treepeople – トゥリーピープル
Just Kidding (C/Z 1993)
Actual Re-Enactment (C/Z 1994)





12, ポスト・ハードコア, ノイズロック, ローファイ (1985年〜)


目次
イントロダクション
ポスト・ハードコア
タッチ・アンド・ゴー (Touch and Go)
ノイズ・ロック
ローファイ
ディスク・ガイド

イントロダクション

 パンクを出発点に、ハードコア・パンク、ポスト・パンク、ニュー・ウェーヴ、ノー・ウェーヴなど、多様なジャンルが派生。それと並行して、各地にDIY精神に乗っ取ったインディペンデント・レーベルが生まれ始めた、70年代後半から80年代前半。

 80年代中頃に入ると、パンクやハードコアから、さらに先進性を増した「ポスト・ハードコア」と呼ばれるジャンルへ発展します。ノイズロックと呼ばれる、さらに実験性を増したジャンルや、ローファイと呼ばれる、チープな音像を特徴としたジャンルも登場。地上と地下との音楽性の差異が、ますます際立つようになります。

 同時に、CMJおよびカレッジ・ラジオの影響力も増し、ビートルズに代表されるブリティッシュ・ロックの影響を受けるパワー・ポップや、サイケデリック・ロックから派生したネオ・サイケデリアなど、60年代の音楽を取り込んだバンドも増加。

 その一方で、地上ではMTVが全盛を迎え、メジャー・レーベルがメガヒットを連発。メジャーと契約する華やかなロック・バンドも誕生し、彼らの一部は「産業ロック」(corporate rock)と呼ばれ揶揄されます。

 90年代に入ると、ニルヴァーナ(Nirvana)を象徴としたグランジの大ブームが巻き起こるのですが、80年代中盤から後半は、グランジやオルタナティヴ・ロックを準備した期間と言っていいでしょう。

 このページでは、ポスト・ハードコア、ノイズ・ロック、ローファイの3ジャンルをご紹介します。

ポスト・ハードコア

 まずは、パンク・ロック、ハードコアから派生したポスト・ハードコア。「ポスト・ハードコア」というジャンル名が示唆するように、ハードコア・パンクから派生して起こったのがこのジャンルです。

 基本的にはシンプルなロックンロールであったパンク・ロックの、攻撃性やスピード感を先鋭化するかたちで生まれたハードコア・パンク。そこから派生したジャンルということは、さらに先鋭化しているのか、と問われれば答えはイエス。

 しかし、単純にスピードや音量を増したというよりも、より複雑性を増したアンサンブルや、実験的なサウンドを持つバンドが多いのが、このジャンルの特徴です。

 攻撃的でスピード重視のハードコアから、さらに派生したジャンルと言うと、圧倒的な音量とハイテンポの音楽を想像するかもしれません。実際、僕自身がそうでした。

 しかし、実際のポスト・ハードコアは、ハードコア・パンクを下敷きにしながら、時にはジャズや現代音楽、プログレッシヴ・ロックなどの要素を取り込み、より実験性の増した音楽、と言った方が適切です。

 さて、そんなわけで1980年代中頃に起こったポスト・ハードコア。初期の重要バンドは、前ページ(11, パンク・ブーム以後の時代 (1978年〜)で紹介した、SSTやディスコード(Dischord)に所属するバンドたち。

 上記のレーベルおよび所属バンドは、ハードコア・パンクから出発し、徐々にポスト・ハードコア色を濃くしていきます。いずれもSSTからリリース歴のあるブラック・フラッグ(Black Flag)、ハスカー・ドゥ(Hüsker Dü)、ミニットメン(Minutemen)らは好例。当初は比較的シンプルなパンク・ロックを志向しながら、作品を重ねるごとに実験性を増していきました。

 ディスコードの設立者でもあるイアン・マッケイが、マイナー・スレット解散後に結成したフガジ(Fugazi)も、ポスト・ハードコアを代表するバンドのひとつです。

 疾走感溢れるハードコア・パンクで一世を風靡したマイナー・スレットとは異なり、フガジは当初からアンサンブルを重視した音楽を展開。ハードな音像と、複雑かつバラエティに富んだアンサンブルが共存する音楽を作り上げ、ポスト・ハードコアの雛形のひとつとなります。

タッチ・アンド・ゴー

 ここで、ポスト・ハードコアの名盤を多数リリースし、80年代のUSインディー・シーンを代表するレーベルのひとつである、タッチ・アンド・ゴー(Touch and Go Records)をご紹介します。

 タッチ・アンド・ゴーは1981年、シカゴで設立されました。1979年に、テスコ・ヴィー(Tesco Vee)とデイヴ・スティムソン(Dave Stimson)が、タッチ・アンド・ゴー・マガジンという手作りのファンジンの発行を始め、そこからレーベルへと発展していきます。

 2009年にレーベルの規模を縮小するまで、精力的にUSインディー・シーンを支えてきた同レーベル。そのため、ポスト・ハードコアの専門レーベルというわけではなく、扱うジャンルも多岐に渡ります。その中で、1980年代から同レーベルで活躍した人物として、スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)ご紹介します。

 元々はライターとして活動していたアルビニ。やがて、自身もミュージシャンおよびレコーディング・エンジニアとして活動を始め、現在はシカゴに自身のスタジオ、エレクトリカル・オーディオ(Electrical Audio)を構える著名なエンジニアです。

 そんなアルビニが結成していたバンドが、ビッグ・ブラック(Big Black)、レイプマン(Rapeman)、シェラック(Shellac)の3つ。活発な活動はしていませんが、シェラックは現在も継続中です。

 上記3バンドは、それぞれ音楽性は異なりながら、いずれもポスト・ハードコアと呼べる質を備えた音楽を展開。そして、3バンドとも、タッチ・アンド・ゴーから作品をリリースしています。

 ビッグ・ブラックは、1981年から1987年にかけて活動。基本編成は、ギター2人に、ベースが1人。ドラマー不在のバンドで、代わりにローランド社製のリズムマシーンを使用。メンバーにもドラムとして「Roland」がクレジットされています。

 ドラマー不在の編成も特異ですが、音楽性も個性的。リズムマシーンが刻む一定のビートの上で、金属的に歪んだギターとベースが、響き渡ります。

 リズムマシーンの音色をはじめ、ギターとベースの音作りも無駄を削ぎ落としたもの。しかし、オーバー・プロデュースにならないサウンドが、緊張感を演出し、刃物のように鋭い音楽を作り上げていきます。

 レイプマンは、1987年から1989年まで活動。こちらはギター、ベース、ドラムの3ピース編成です。音楽性は、ビッグ・ブラックの延長線上と言ってよく、金属的な歪みのギターを中心に、音数はそこまで増やさず、各楽器が絡み合うようなアンサンブルを繰り広げます。

 ビッグ・ブラックとレイプマンは、ポスト・ハードコアの範疇に入りますが、同時にノイズ・ロックと呼んでもいいジャンクなサウンド・プロダクションを持っています。

 シェラックは、1992年に結成。現在までに5枚のスタジオ・アルバムをリリースし、活動を継続中。と言っても、積極的に活動しているわけでなく、たまに集まってアルバムをリリースするぐらいのマイペースです。

 レコーディング・エンジニアとしても著名なスティーヴ・アルビニ。彼が手がけるサウンドの特徴は、スタジオの残響音まで閉じ込めるように、生々しくバンドの音を記録するところです。

 シェラックは、まさにアルビニ録音の魅力が凝縮されたバンド。飾り気のないむき出しのサウンドの各楽器が、臨場感をともなって響きます。演奏面でも、変拍子など実験的な要素を取り込みながら、無駄を削ぎ落としたタイトなアンサンブルが展開。個人的には、ポスト・ハードコアの理想形のひとつだと思います。

 ちなみに、シェラックにベーシストとして在籍するボブ・ウェストン(Bob Weston)は、アルビニからレコーディング技術を学んだ弟子のような人物。彼もレコーディング・エンジニアおよびプロデューサーとして、活躍しています。

 最後にもうひとつ、タッチ・アンド・ゴーに所属し、アルビニがプロデュースを手がけたポスト・ハードコア・バンドをご紹介します。1987年に、テキサス州オースティンで結成されたジーザス・リザード(The Jesus Lizard)です。

 このバンドには、クラシック・ギターで音楽を始め、ジーザス・リザード結成前にはジャズも演奏していた、ギタリストのデュエイン・デニソン(Duane Denison)が在籍。

 ジャズ的なリズムやフレーズと、ジャンクな音質が融合し、独特のポスト・ハードコア・サウンドを作り上げました。

ノイズ・ロック

 続いて、ノイズ・ロックと呼ばれるジャンルをご紹介します。パンク・ロックおよびハードコア・パンクの攻撃性がひとつの起源になっている点は、ポスト・ハードコアと共通。

 「ノイズ・ロック」という名称が示すように、より実験性と前衛性が強いのが、このジャンルの特徴です。ただ、前述のビッグ・ブラックやジーザス・リザードがノイズロックに分類されることもありますし、ジャンル分けは多かれ少なかれ曖昧である点はご留意ください。

 ノイズ・ロックを代表するバンドは、1981年にニューヨークで結成されたソニック・ユース(Sonic Youth)。現代音楽やノー・ウェーヴからの影響が色濃くにじむ彼らの音楽は、不協和音やノイズが、ロックのダイナミズムと溶け合い、音量やスピードに拘るハードコア・パンクとは、違ったベクトルの攻撃性を有しています。

 1990年代前半に大ブームを巻き起こした、グランジとオルタナティヴ・ロック勢へも、多大な影響を与えました。

 他にノイズ・ロックにカテゴライズされることのある代表バンドは、バットホール・サーファーズ(Butthole Surfers)、プッシー・ガロア(Pussy Galore)、アンセイン(Unsane)など。いずれも、方法論とサウンドは違えど、ノイズを音楽に取り込み、魅力へと転化しています。

 ノイズ・ロックに特化したレーベルも誕生します。1986年にミネソタ州ミネアポリスで設立されたアンフェタミン・レプタイル(Amphetamine Reptile)は、多くの個性的なバンドを輩出しました。

ローファイ

 最後に紹介するのは、ローファイと呼ばれるジャンルです。

 語源となったのは「low fidelity」。「fidelity」とは、「忠実」や「原物そっくり」を意味する名詞で、音楽に関して「low fidelity」と言えば、原音から遠いという意味。

 つまり、実際に発せられた音よりも、劣った音質であるということ。「ローファイ」は、元々はそのような音質自体を指す言葉でしたが、転じてチープな音質でレコーディングされた音楽を指すようになります。

 音質を指す言葉がジャンル名になったため、このジャンルの特徴は音楽の構造よりも、その音質自体にあります。ただ、チープな音質に比例して、演奏もしょぼいことが多い、むしろ一般的にはヘタクソな演奏も魅力の一部としているのがローファイというジャンルです。

 また、前述のとおり本来は、満足なレコーディング環境を準備できず、バンドがカセットテープに録音した、ヘロヘロの音質を指していましたが、やがて意図的にチープな音質でレコーディングされたものもローファイと呼ばれるようになります。

 「チープな音質」と書いてしまいましたが、もっと具体的に書くと、一般的に良いとされるサウンドから離れた、個性的なバランスのサウンドが、ローファイと呼ばれるようになっていきます。そのため、ある時期以降のローファイには、思ったより音質の悪くないものが数多くあります。

 元々は音質を指す言葉だったローファイが、やがて音楽のスタイルを指すジャンル名へと、変質していったということでしょう。

 パンク・ロックから、ハードコア・パンク、ポスト・ハードコアへと、攻撃性と実験性を増していったのと並行して、一般的に良いとされるサウンドから遠ざかり、別種のかっこいいサウンドを追求するローファイは、やはり非メジャー的かつインディーズ的な音楽と言えます。

 このジャンルの特徴を挙げるなら、チープな音質と演奏によって、メロディーやアンサンブルのコアな部分を引き立つこと。そして、一般的に良いとされるサウンドとは、別種のサウンドを追い求める、言い換えれば音響的なアプローチを伴ったジャンルであること。これらはローファイの特徴であり、同時に魅力ともなっています。

 ローファイを代表するバンドとして、まずご紹介したいのは、ビート・ハプニング(Beat Happening)。1982年にワシントン州オリンピアで結成され、中心メンバーのキャルヴィン・ジョンソン(Calvin Johnson)は、同年にインディー・レーベル、Kレコーズを設立。ビート・ハプニングの作品の多くは、同レーベルからリリースされています。

 ビート・ハプニングの初期の作品群は、これぞローファイ!と言うべき、クオリティを備えています。すなわち、チープでぺらぺらの音質と、不安定でヘロヘロの演奏。その中で、無邪気なメロディーがポップに響き、音楽のコアな魅力が前景化されています。

 しかし、ビート・ハプニングもアルバムを追うごとに音質と演奏能力は向上。それでも、メジャー・レーベルからリリースされるパワフルな音質に比べれば十分にチープですが、徐々にアンサンブルとソングライティングに重きをおいた音楽性へと、シフトしていきます。

 他にローファイを代表するバンドとして挙げられるのは、ガイデッド・バイ・ヴォイシズ(Guided By Voices)、ペイヴメント(Pavement)、セバドー(Sebadoh)など。しかし、ここに挙げた3バンドも、当初はチープな音質を特徴としながら、それほど音質が悪くない作品も多いです。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンドのディスクガイドです。

Fugazi “Repeater” (1990 Dischord)

フガジ 『リピーター』 (1990年 ディスコード)

 イアン・マッケイが、マイナー・スレット解散後に結成したバンド、フガジの1stアルバム。ハードコア・パンク直系の絞り出すようなシャウトと、複雑なアンサンブルが融合する、ポスト・ハードコアの名盤。

 


Big Black “Songs About Fucking” (1987 Touch And Go)

ビッグ・ブラック 『ソングス・アバウト・ファッキング』 (1987年 タッチ・アンド・ゴー)

 スティーヴ・アルビニ率いるビッグ・ブラックの2ndアルバムであり、ラスト・アルバム。淡々と刻まれるドラム・マシンのビートに、金属的な音色のギターが絡む、無駄を削ぎ落としたサウンドとアンサンブル。

 


Rapeman “Two Nuns And A Pack Mule” (1988 Touch And Go)

レイプマン 『トゥー・ナンズ・アンド・ア・パック・ミュール』 (1988年 タッチ・アンド・ゴー)

 ビッグ・ブラック解散後に結成された、レイプマン唯一のフル・アルバム。ビッグ・ブラックの時に使用していたリズム・マシンに代わり、ドラマーを迎えた3ピース編成。金属的な歪みのギター・サウンドは引き継ぎ、各楽器がより複雑に絡み合うアンサンブルが展開。デジタル配信はされていないようです。


Shellac “At Action Park” (1994 Touch And Go)

シェラック 『アット・アクション・パーク』 (1994年 タッチ・アンド・ゴー)

 シェラックは、どのアルバムを素晴らしい完成度なのですが、最もポスト・ハードコア色がストレートに出ているということで、1stアルバムを挙げておきます。

 演奏もサウンド・プロダクションも、一切のムダが無くタイト。過度な色付けはせず、生々しいサウンドが鳴り響く1作です。アルビニ録音の入門作としてもオススメ。

 


The Jesus Lizard “Liar” (1992 Touch And Go)

ジーザス・リザード 『ライアー』 (1992年 タッチ・アンド・ゴー)

 テキサス州オースティン出身のバンド、ジーザス・リザードの3rdアルバム。レコーディング・エンジニアを務めるのは、スティーヴ・アルビニ。

 ジャズの要素を含んだ複雑なアンサンブルと、ジャンクなサウンドが同居する1作です。ジーザス・リザードは、タッチ・アンド・ゴーに4枚のアルバムを残しましたが、全てアルビニのプロデュースで、いずれも良作。

 


Sonic Youth “Bad Moon Rising” (1985 Homestead)

ソニック・ユース 『バッド・ムーン・ライジング』 (1985年 ホームステッド)

 ニューヨークのアングラの帝王、ソニック・ユースの2ndアルバム。変則チューニングを駆使した奇妙なハーモニーに、ノイジーなサウンドが融合。様々な面で、ノイズを感じる1作です。

 一般的な意味からすればポップではなく、違和感を持つアレンジが随所に散りばめられているのに、その違和感がやがて魅力に変化し、気がつけばソニック・ユースの音楽の虜になるはず。

 


Beat Happening “Beat Happening” (1985 K Records)

ビート・ハプニング 『ビート・ハプニング』 (1985年 Kレコーズ)

 ワシントン州オリンピアで結成されたバンド、ビート・ハプニングの1stアルバム。ローファイを聴いてみたいなら、まずはこのアルバムを聴いてみてください。チープな音、しょぼい演奏、それでいてやたらとポップで耳に残るメロディー。

 アルバムのジャケットに比例するように、かわいく、愛おしい音楽が詰まっています。音楽の魅力とは何か、という根源的な問いに対する、ヒントを感じる1作。

 


Pavement “Slanted And Enchanted” (1992 Matador)

ペイヴメント 『スランティッド・アンド・エンチャンティッド』 (1992年 マタドール)

 ビート・ハプニングやセバドーと並び、ローファイを代表するバンドのひとつと目されるペイヴメント。本作は、1992年にリリースされた、彼らの1stアルバム。チープな音像と、ヘロヘロの演奏、物憂げなボーカルが溶け合う、ローファイ感あふれる1作です。

 ただ、2作目以降は、一般的な意味で高音質とは言い難いのですが、音質も演奏能力も向上。サイケデリック・ロック色の濃い音楽を展開していきます。Appleでは、今のところ未配信のようです。


Sebadoh “The Freed Man” (1989 Homestead)

セバドー 『ザ・フリード・マン』 (1989年 ホームステッド)

 ダイナソーJr.での活動でも知られるルー・バーロウ(Lou Barlow)を中心に結成されたバンド、セバドーの1stアルバム。ローファイを代表するバンドのひとつに数えられるセバドー。

 本作は、アコースティック・ギターを主軸に据えた、宅録感あふれるサウンドに乗せて、メロディーがゆるやかに漂う1作です。ビートルズを思わせるハーモニーも魅力ですが、どこか不安定で怪しい部分があるのもご愛嬌。

 


関連バンド作品の個別レビュー

Beat Happening – ビート・ハプニング
Beat Happening (K Records 1985)
Black Candy (K Records 1989)

Big Black – ビッグ・ブラック
Songs About Fucking (Touch And Go 1987)
Pig Pile (Touch And Go 1992)

Butthole Surfers – バットホール・サーファーズ
Locust Abortion Technician (Touch And Go 1987)

Fugazi – フガジ
In On The Kill Taker (Dischord 1993)
Red Medicine (Dischord 1995)
The Argument (Dischord 2001)

Guided By Voices – ガイデッド・バイ・ヴォイシズ
Alien Lanes (Matador 1995)
Under The Bushes Under The Stars (Matador 1996)
Mag Earwhig! (Matador 1997)

Hüsker Dü – ハスカー・ドゥ
New Day Rising (SST 1985)

The Jesus Lizard – ジーザス・リザード
Head (Touch And Go 1990)
Goat (Touch And Go 1991)
Liar (Touch And Go 1992)
Down (Touch And Go 1994)

Pavement – ペイヴメント
Slanted And Enchanted (Matador 1992)
Crooked Rain, Crooked Rain (Matador 1994)
Wowee Zowee (Matador 1995)
Brighten The Corners (Matador 1997)
Terror Twilight (Matador 1999)

Pussy Galore – プッシー・ガロア
Right Now! (Caroline 1987, Matador 1998)
Dial ‘M’ For Motherfucker (Caroline 1989, Matador 1998)

Sebadoh – セバドー
Bubble & Scrape (Sub Pop 1993)
Bakesale (Sub Pop 1994)
Harmacy (Sub Pop 1996)

Shellac – シェラック
At Action Park (Touch And Go 1994)
Excellent Italian Greyhound (Touch And Go 2007)

Slint – スリント
Tweez (Jennifer Hartman 1989, Touch And Go 1993)
Spiderland (Touch And Go 1991)

Sonic Youth – ソニック・ユース
EVOL (SST 1986)

Unsane – アンセイン
Total Destruction (Matador 1994)

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11, パンク・ブーム以後の時代 (1978年〜)


目次
イントロダクション
パンクからの派生ジャンル
ノー・ウェーブ
ZEレコード
ハードコア・パンク
ブラック・フラッグ
SST
マイナー・スレット
ディスコード
R.E.M.とカレッジ・ロック
その他の重要レーベル
ディスク・ガイド

イントロダクション

 ピストルズを着火点に広がった、世界的なパンク旋風。その後、パンク・ムーヴメント自体は下火になるものの、パンクから派生するかたちで様々なジャンルが生まれます。それと比例するように、全米各地にインディー・シーンおよびインディペンデント・レーベルが誕生。

 このページでは、パンク以後に生まれた代表的なジャンルとレーベルを挙げながら、USインディー・ロックの発展と拡大を追っていきます。このあたりから、地域ごとの個性が際立ち、USインディーらしい奥深さが生まれていきますよ!

パンクからの派生ジャンル

 「パンク」と一口に言っても、もちろんバンドごとに音楽性は異なりますし、ロンドン・パンクとニューヨーク・パンクでも、大きく毛色が変わります。

 また、例えば同じピストルズに影響を受けたバンドでも、彼らの音楽性や思想をコピーしようとする者もいれば、さらに過激に発展させようとする者、さらにはカウンターで全く逆のことをやろうとする者さえいます。

 では、70年代後半のパンク旋風が過ぎ去ったあと、その影響がどのように引き継がれ、どのようなジャンルが生まれたのか。いくつかの代表的なジャンルと地域、そしてレーベルを参照しながら、ご紹介します。

 具体的には、ニューヨークのノー・ウェーブ、各地で生まれたハードコア・パンク、そしてカレッジ・ロックの文化。この3つを軸に話を進めます。

ノー・ウェーヴ

 まずはニューヨーク・パンクを育み、ロンドンと共にパンクの出発点のひとつとなった、ニューヨークに注目してみましょう。シンプルな8ビートのロックを下敷きに、反体制的なメッセージを発するロンドン・パンクと比較して、ニューヨーク・パンクは当初から実験性とアート性を重視した音楽を繰り広げていました。

 古くから貿易の中心地であり、マンハッタン周辺の狭いエリアに、多様な民族が暮らしてきたニューヨーク。パンクの季節が過ぎ去り、1970年代後半からは、ポストパンクの動きが加速します。

 一般的にポストパンクと言うと、シンプルなロックを基調としていた、パンクの音楽的構造へのカウンターで、シンセサイザーの音色を用いる、複雑なビートを持ち込むなどして、非ロックへと向かう音楽を指します。この流れは、ピストルズとパブリック・イメージ・リミテッド(Public Image Ltd)を中心にした、イギリスを例にとっても分かりやすいでしょう。

 ニューヨーク・パンクに分類されるバンドの一部は、前述したポストパンクの要素を、当初から持ち合わせていました。例を挙げるなら、トーキング・ヘッズにおける多彩なビートの導入や、テレヴィジョンにおける歌詞の文学性と音楽の実験性などです。

 また、政治に対して反抗的なアティチュードが特徴のロンドン・パンクと比較すると、ニューヨーク・パンクは音楽的・芸術的な面で、従来の方法論に反抗する、という特徴を持っていました。

 パンク旋風が過ぎ去ったあと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからニューヨーク・パンクへと繋がる方向性を、さらに過激に押し進めたのが、ノー・ウェーブ(No Wave)と呼ばれるムーヴメントです。

 このムーヴメントを代表する1枚が、1978年にリリースされた『No New York』。トーキング・ヘッズの2ndアルバム『More Songs About Buildings And Food』のプロデュースのため、ニューヨークに滞在していたブライアン・イーノが、当地でノー・ウェーブのバンドのライヴを目撃。

 そこで目にした4バンドに声をかけ、彼がプロデューサーとしてまとめたコンピレーション・アルバムが、この『No New York』です。収録されたのは、コントーションズ(Contortions)、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス(Teenage Jesus And The Jerks)、マーズ(Mars)、DNAの4組。いずれも当時のノー・ウェーブを代表するグループでした。

 商業化したロックへのアンチテーゼでもあった彼らの音楽は、フリージャズや実験音楽からの影響も色濃く、極めて実験的。そのため、商業的に成功することはなく、ノー・ウェーブのムーヴメントも短命に終わります。

 しかし、彼らのバラまいたオルタナティヴの種は、ソニック・ユースを筆頭に後続のバンドへ引き継がれ、ニューヨークのアングラ、インディー・シーンは、やがて大きく花開きます。

ZEレコード

 ノー・ウェーブが盛り上がる中で、メジャー的ではない同ムーヴメントの音楽をリリースする、インディペンデント・レーベルが誕生します。それが、イラク系イギリス人のマイケル・ジルカと、フランス人のマイケル・エステバンによって、1978年に設立されたZEレコード(ZE Records)

 『No New York』にも参加していたマーズ、DNAのメンバーだったアート・リンゼイ、コントーションズを率いたジェームス・チャンスの作品などをリリースします。

 ちなみに『No New York』は、メジャーのアイランド・レコード傘下のアンティルス(Antilles)というレーベルからのリリース。これは、ブライアン・イーノがアイランド・レコードに、コンピレーションの企画を持ち込み、実現したようです。

ハードコア・パンク

 次にご紹介するのは、ハードコア・パンク。パンク・ロックの持つ攻撃性を引き継ぎ、先鋭化させたジャンルです。

 ピストルズやラモーンズなど、パンクに分類されるバンドの多くは、シンプルなロックンロールを下敷きにした音楽性を持っていました。また、特にロンドン・パンクのバンドには、思想的に反体制であったり、歌詞が攻撃的なバンドが多く見受けられます。

 そのような攻撃性を抽出し、先鋭化させていったジャンルが「ハードコア・パンク」です。そのため、このジャンルの特徴というと、パンクよりもテンポが高速であること、パンク以上に激しくシャウトし、ギターも歪ませること、などが挙げられます。

 それでは、ここからアメリカにおけるハードコアの第一世代で、後進のバンドにも多大な影響を与えたバンドを二つご紹介していきます。まず、ひとつ目のバンドは、1976年にカリフォルニア州ハモサビーチで結成されたブラック・フラッグ(Black Flag)。そして、もうひとつは、1980年にワシントンD.C.で結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 彼らはそれぞれ、自らのレーベルを立ち上げ、地元シーンの活性化にも貢献。また、バンドで自らレーベルを立ち上げる、モデル・ケースともなりました。

 では、これから上記2つのバンドが結成され、各地のシーンが活性化していくプロセスを、ご紹介します。

ブラック・フラッグ

 まずは、ブラック・フラッグ(Black Flag)と、SSTレコードについて。

 ロンドンとニューヨークのパンク・バンドに感化され、各地でパンク・バンドが結成されます。南カリフォルニアで結成された、ブラック・フラッグもそのひとつ。

 ブラッグ・フラッグの中心メンバーであり、のちにSSTレコードを設立する、グレッグ・ギン(Greg Ginn)は、1954年にアリゾナ州ツーソンで生まれました。

 その後、一家はカリフォルニア州ベーカーズフィールド郊外の農村へ引っ越し、ギンは幼少期を同地で過ごします。兄弟姉妹は、彼を含め5人。父親は学校の教師をしていましたが、収入は少なく、生活は決して楽ではなかったようです。

 1962年、ギンが8歳のときに、一家は同じカリフォルニア州内のハモサビーチへ引っ越し。いわゆる、ロサンゼルス大都市圏(Greater Los Angeles Area)の中に位置する、白人中産階級が暮らすエリアです。

 同地は1950年代には、ビートニク(Beatnik)と呼ばれる、先進的な文学グループのメッカでしたが、ギンが引っ越す頃には、サーファー達に愛される場所へと、様変わり。やがてギンは、同地の物質主義的な風土を軽蔑するようになり、詩作やアマチュア無線を好む、物静かな少年となります。

 12歳になると、ラジオの部品を通信販売するビジネスを立ち上げ、その会社をソリッド・ステイト・チューナーズ(Solid State Tuners)と名付けます。略して、SST。のちのSSTレコードの由来にもなる名称です。

 幼少期からティーンエイジャーを通して、音楽には興味を示さなかったギン。しかし、そんな彼にも、音楽へ目覚めるきっかけが訪れます。1972年、彼が18歳のときに、地元ラジオ局から賞品としてもらった、デイヴィッド・アクルス(David Ackles)の『American Gothic』。

 デイヴィッド・アクルスは、1937年生まれのシンガーソングライターで、商業的には成功しなかったものの、ルーツ・ミュージックを含んだ多様なジャンルを参照したサウンドは、評論家やミュージシャンから、高い評価を得ていました。『American Gothic』は、1972年にリリースされた、彼の代表作。

 商業的な3分間のポップ・ソングには、興味が持てなかったギンですが、本作で音楽に目覚め、アコースティック・ギターを手にします。やがて、エレキ・ギターを手に取り、作曲も始めます。

 1970年代の中頃、ハモサビーチで人気を博していたのは、ジェネシス(Genesis)を筆頭に、イギリスの華やかなバンドたち。しかし、ギンが好んだのはテクニカルで端正な70年代のバンドよりも、プリミティヴな60年代のバンドでした。

 周囲で人気のバンドに興味が持てないギンに、ここで再び転機が訪れます。ヴィレッジ・ヴォイス(The Village Voice)誌を読んでいるときに見かけた、パンク・ロックに関する記事。そこで紹介されていたのは、マクシズ・カンザス・シティ(Max’s Kansas City)やGBGBなど、当時パンク・バンドが多数出演していた、ニューヨークのライブ・ハウスです。

 音を聴く前から、パンク・ロックこそ自分が探していたものだと確信し、パンクをはじめ、ギンはさらに多くの音楽を聴くようになります。そして1976年、ギンが22歳のとき、遂にブラック・フラッグが結成されます。

 「ブラック・フラッグ」というバンド名は、ギンの弟であり、画家として同バンドのロゴをデザインした、レイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)の提案によるもの。「白旗が降参を意味するなら、黒旗はアナーキーをあらわす」というペティボンの考えに基づいています。

 1978年に、ギンはブラック・フラッグの音源をリリースするため、自らのレーベルSSTを設立。翌1979年には、SST最初のリリース作品として、ブラック・フラッグのEP『Nervous Breakdown』が発売されています。

 さて、ハードコア・パンクを代表するバンドのひとつと目されるブラック・フラッグ。彼らの音楽は、ラモーンズ的なパンクのシンプリシティに、無調性なギターソロを合わせ、現代音楽的な実験性を持ち込んだところが特徴でした。

 また、ヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)の絞り出すようにかすれたボーカル、全体の荒々しくざらついたサウンド・プロダクションも、ピストルズやラモーンズに、音質面で攻撃性をプラスしていると言えるでしょう。

 アルバムを追うごとに、リズムの面でも実験性を増していきます。当初は前のめりに疾走するリズムが主軸だったものの、やがてテンポの切り替えを頻繁におこなう曲、スローテンポで音響やアンサンブルを前景化させる曲などが増加。

 シンプルなパンクに、フリージャズや現代音楽の要素を持ち込み、当初のハードコア・パンクから、徐々にハードコアを越えたポスト・ハードコアへと、音楽性を変化させていきました。
 

SST

 元々はブラッグ・フラッグの音源をリリースするために設立された、SSTレコード。やがて、地元カリフォルニア州のパンク・バンドを中心にリリースを増やし、レーベルとしての活動が、徐々に軌道に乗っていきます。

 まず、ブラッグ・フラッグに続いて、同レーベルから作品をリリースしたのは、ロサンゼルスのサンペドロ出身のミニットメン(Minutemen)。同じくロサンゼルス出身のサッカリン・トラスト(Saccharine Trust)と、オーヴァーキルL.A.(Overkill L.A.)が、それに続きます。

 1982年には、初のカリフォルニア州外のバンドとなる、アリゾナ州フェニックス出身のミート・パペッツ(Meat Puppets)と契約。以降は、州外のバンドとの契約も増え、ミネスタ出身のハスカー・ドゥ(Hüsker Dü)、ニューヨーク拠点のソニック・ユース(Sonic Youth)、マサチューセッツ出身のダイナソーJr.(Dinosaur Jr.)、ワシントン州出身のスクリーミング・トゥリーズ(Screaming Trees)などの作品をリリース。SSTは80年代のUSインディー・ロックを牽引するレーベルのひとつへ成長します。

 SSTがこのような発展を遂げたのは、彼らがアメリカ全土をツアーで回りながら、各地のバンドやレーベルとの、横の繋がりを構築していったため。各地で非メジャー的なバンドと交流を結び、彼らのレコードをSSTからリリースし、メジャーとは一線を画する音楽を紹介するレーベルとして、一種のブランド的な人気を獲得していきます。

 また、ブラッグ・フラッグは結成当初、なかなかボーカリストが安定しませんでした。ヘンリー・ロリンズが加入するのは1981年。実はロリンズはカリフォルニア出身ではなく、東海岸のワシントンD.C.の出身です。

 ブラッグ・フラッグとロリンズが出会うきっかけとなったのも、前述の全米規模のツアー。ロリンズは、ステイト・オブ・アラート(State Of Alert)というバンドのボーカルを務めており、ワシントンD.C.では知られた存在でした。そのため、ロリンズの加入はブラッグ・フラッグの音楽性の発展のみならず、東海岸での知名度獲得にも貢献します。

 テレビや雑誌を利用した大量の広告と、全米規模の販売網を持つメジャー・レーベルとは違い、DIY精神に乗っとった、地道な草の根活動で、シーンを拡大したハードコア・パンク。そして、ブラッグ・フラッグおよびSSTに影響を受けたバンドが、また自らのレーベルを立ち上げ、USインディーは徐々に土壌を整えていくのです。

マイナー・スレット

 続いて西海岸から、東海岸のワシントンD.C.に、目を移しましょう。ここにも、ハードコアの伝説的なバンドが誕生します。イアン・マッケイ(Ian MacKaye)を中心に結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 ボーカルのイアン・マッケイと、ドラムのジェフ・ネルソン(Jeff Nelson)は、1979年に結成されたティーン・アイドルズ(The Teen Idles)でも活動を共にしていました。この、ティーン・アイドルズのEPをリリースするため、マッケイとネルソンによって設立されたレーベルが、ディスコード・レコード(Dischord Records)。

 しかし、同バンドは1980年に解散。マッケイとネルソンを含む一部のメンバーが、新たにマイナー・スレットを結成します。

 ワシントンD.C.は、言うまでもなくアメリカ合衆国の首都であり、多数の大使館や金融機関がオフィスを構える、国際的な政治の中心地です。しかし、人口は60万人ほど。ニューヨークやロサンゼルスと比較すれば少なく、またシカゴやニューオーリンズのように、個性的な文化を持っているわけでもありません。

 語弊を恐れずに言えば、ファッションの発信地でも、文化の中心地でもない、ワシントンD.C.。そんな地味な都市で、ハードコアの豊かなシーンが形成されたという事実が、逆説的にハードコアとインディーズ文化の力強さを、証明しているとも言えるでしょう。

 すなわち、大都市ではなく、個性的な文化や歴史のバックボーンが無くとも、情熱を持ったいくつかのバンドが集まれば、十分にシーンを形成し、やがて全米レベルで名をあげられるということです。

 それでは、同地で生まれたディスコードというレーベルが中心となり、やがて「DCハードコア」と呼ばれるまでにシーンが発展していくプロセスを、これからご紹介していきます。まずは、ディスコードの設立者の1人であり、マイナースレットのメンバーでもある、イアン・マッケイの話から始めましょう。

 イアン・マッケイは1962年、ワシントンD.C.で生まれました。父親は、ワシントン・ポスト紙の記者。有能なジャーナリストであり、マッケイは非常に知的で、オープンマインドな環境で、育てられたようです。

 14歳のとき、のちにブラッグ・フラッグに加入するヘンリー・ロリンズと、家が近所だったために知り合い、現在に到るまでの親友となります。

 当時、マッケイとロリンズが夢中になったのは、ハードロック系のギタリスト、テッド・ニュージェント(Ted Nugent)。音楽もさることながら、酒もタバコもドラッグもやらないという彼の態度に、感銘を受けます。

 当時のマッケイのアイドルは、テッド・ニュージェントの他に、クイーン(Queen)やレッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)など。ウッドストックの映像を何度も見返し、ミュージシャンになりたい、と思うようになります。しかし、自分が憧れるロック・バンドに比べて、自分に才能がないことは明らか。その夢を、早々に諦めていました。

 そんなマッケイ青年の人生を変えたのが、パンク・ロックとの出会いです。出会いのきっかけは、カレッジ・ラジオ。地元ワシントンD.C.の近郊・ジョージタウンにある、ジョージタウン大学のカレッジ・ラジオ局「WGTB」で、パンク・ロックを流していたのです。カレッジ・ラジオの文化に関しては、後述します。

 パンクと出会った、当時高校生のマッケイは、地元のパンク・バンドのライヴに、足を運ぶようになります。マッケイに特に衝撃を与えたのが、バッド・ブレインズ(Bad Brains)です。

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人の4人組で、元々はマインド・パワー(Mind power)という、ジャズ・ロックやフージョン系のバンドで活動していました。バッド・ブレインズの音楽は、スピード重視のハードコア・パンクを基調としながら、レゲエやメタル、ジャズ、ファンクの要素まで取り込んだ、唯一無二のもの。

 バッド・ブレインズの音楽は非常に高度なものでしたが、「音楽的には未熟でも良い」というパンク・ロックの精神に惹かれ、マッケイは自らもバンドを結成できると確信します。そうして、同じウィルソン高校(Woodrow Wilson High School)に通う友人のジェフ・ネルソンらと共に、ティーン・アイドルズを結成。1979年、マッケイが17歳のときでした。

 ティーン・アイドルズは、メンバー間の方向性の違いから1年ほどで解散しますが、マッケイとネルソンは新たなバンドを結成します。それが、マイナー・スレットです。また、ティーン・アイドルズ時代にレコーディングした音源をリリースするため、同時期にはディスコード・レコードも設立されています。

 マイナー・スレットも活動期間は短く、1980年から1983年までの4年弱。活動中にリリースした音源も、数枚のみ。しかし、そのスピーディーでタイトな音楽性で、ハードコアの伝説的なバンドとなります。

 また、音楽性と並んで、彼らの影響力の源泉となったのが、徹底したDIY精神と、ストレート・エッジ(Straight Edge)と呼ばれる思想です。

 ストレート・エッジとは、「セックス、ドラッグ、ロックンロール!」という言葉に集約される、快楽的なロックの価値観を否定し、酒もタバコもドラッグもやらない、禁欲的な思想やライフスタイルを指す言葉。マイナー・スレットに「Straight Edge」というタイトルの楽曲があり、イアン・マッケイが、最初の提唱者と言われています。

 音楽面と精神面の両面で、ストイックに自分たちの理想を示したマイナー・スレット。レーベル運営のシステムも含めて、後続のバンドに大きな影響を与えました。

ディスコード

 続いて、マイナー・スレットのメンバーである、イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが設立したレーベル、ディスコード・レコード(Dischord Records)に話を進めましょう。

 ディスコードが設立されたのは1980年。マイナー・スレットの前身バンドであるティーン・アイドルズの音源を、リリースするためでした。

 ティーン・アイドルズに続いて、2枚目のリリースとなったのは、ステイト・オブ・アラートの『No Policy』。マッケイの友人であり、のちにブラッグ・フラッグに加入する、ヘンリー・ロリンズが在籍していたバンドです。

 その後もワシントンD.C.周辺のハードコア・バンドを中心に、リリースを重ねていきます。80年代前半の主なバンドを挙げると、ガヴァメント・イシュー(Government Issue)、フェイス(The Faith)、スクリーム(Scream)など。

 もちろん、ティーン・アイドルズ解散後に、マッケイとネルソンが結成した、マイナー・スレットの一連の作品も、ディスコードからリリースされています。

 マイナー・スレットは1983年に解散し、マッケイは新たにフガジ(Fugazi)を結成。疾走感あふれる、タイトなハードコア・サウンドが持ち味だったマイナー・スレットとは変わって、より複雑なアンサンブルを志向するポスト・ハードコアへと、音楽性が発展していきます。

 フガジと呼応するように、80年代中盤以降はディスコードからリリースされるバンドも、より多様性と実験性を増していき、時代はハードコアから、ポスト・ハードコアへと移行。ディスコードは、この流れの中心のひとつとなり、シーンを牽引していきます。

 80年代中盤から90年代にかけて、フガジを筆頭に、ライツ・オブ・スプリング(Rites of Spring)、ネイション・オブ・ユリシーズ(Nation Of Ulysses)、ジョーボックス(Jawbox)、シャダー・トゥー・シンク(Shudder To Think)、ラングフィッシュ(Lungfish)など、多くのバンドを輩出。

 ハードコアからポスト・ハードコアへと繋がる、メジャーとは一線を画したブレない音楽性は、世界中にフォロワーを生み、USインディー・シーンの最重要レーベルのひとつと認識されるまでになります。

R.E.M.とカレッジ・ロック

 パンクからハードコア、そしてDIY精神に根ざしたレーベル設立の流れとは別の、もうひとつの文化をご紹介します。インディー・レーベルと共に、各地のシーン勃興に大きく貢献した、カレッジラジオ(college radio)の文化です。

 カレッジ・ラジオとは、その名のとおり大学のキャンパス内や、学園都市に開設される、学生向けの放送をおこなうFMラジオ局のこと。そのため、英語圏ではキャンパス・ラジオ(campus radio)とも呼ばれます。

 放送範囲が狭く、対象も学生および若者とハッキリしており、インディーズ・レーベルと同じく、メジャー的ではない個性的な音楽を流します。

 全米各地のカレッジ・ラジオ局を繋ぎ、独自の文化として発展させたのが、カレッジ・ミュージック・ジャーナル(College Media Journal)、通称CMJです。CMJは、1978年に創刊された、カレッジ・ラジオのチャートや情報を掲載する音楽誌。

 各地に点在するカレッジ・ラジオ局の放送曲を集計し、チャートとして発表。小さな地方都市で活動するバンドが、メジャー・デビューしなくとも、脚光を浴びる道が拓かれました。いわば、インターネットが無い時代に、インターネット上のコミュニティのように、情報を拡散するシステムとして機能した、とも言えるでしょう。

 1982年には、CMJニュー・ミュージック・レポート(CMJ New Music Report)と改称し、メジャーではMTVが全盛となるなか、メジャーとは別種の音楽を紹介するメディアとして、多大な影響力を持つようになります。また、カレッジ・ラジオでかかるロックが、「カレッジ・ロック」とも呼ばれるようになります。

 そして、このカレッジ・ラジオの文化の中から登場した代表的なバンドが、ジョージア州アセンズ出身のR.E.M.。1980年に、学生都市アセンズで結成されたR.E.M.は、カレッジ・ラジオでの人気を追い風に、全米規模の人気のバンドへと登りつめていきます。

 メジャー・レーベルA&M傘下のインディー部門(メジャー資本が入っているため、純粋なインディー・レーベルと呼ぶべきかは微妙)として設立された、I.R.S.からリリースの1stアルバム『Murmur』は、サイケデリックなギターロックとでも呼ぶべき音楽が展開され、いわゆるパンク・ロックとは全く異なる音楽。

 パンクへのカウンターとして機能する、ポストパンクやニューウェーヴの一種とも、言えなくもないですし、シーンの流れに関係なく、地方の一バンドでも良い音楽を作れば、ラジオをきっかけにブレイクできる証左とも言えます。

 ここで、パンクとは異なるもうひとつの流れとして、「ペイズリー・アンダーグラウンド」(Paisley Underground)をご紹介しておきましょう。

 ペイズリー・アンダーグラウンドとは、80年代にカリフォルニアを中心に起こった、60年代のジャングル・ポップやサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックをリヴァイヴァルするムーヴメントのこと。

 70年代の洗練されたロックではなく、よりプリミティヴな60年代のロックへ回帰するところは、既存のロックへのアンチテーゼでもあったパンク・ロックと、地続きであるとも言えるでしょう。

 このページでは全てお伝えしきれませんが、パンクやハードコア以外にも、多様なジャンルのバンドが、全米各地で生まれていくのもこの時期です。その土壌を用意したのが、各地のインディペンデント・レーベルであり、カレッジ・ラジオ局でした。

その他の重要レーベル

 この時期に設立・活躍した、その他の重要レーベルを、いくつかご紹介します。

 まずは、カリフォルニア州サンフランシスコ出身のパンク・バンド、デッド・ケネディーズ(Dead Kennedys)のジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)とイースト・ベイ・レイ(East Bay Ray)によって設立された、オルタナティヴ・テンタクルズ(Alternative Tentacles)

 1979年に設立された同レーベルは、パンクを基調としつつ、パンクの枠組みだけに収まらない、個性的なバンドの作品をリリース。D.O.A.やディックス(Dicks)、初期のバットホール・サーファーズ(Butthole Surfers)等のバンドが、作品を残しています。

 1978年にカリフォルニア州ロサンゼルスで設立されたスラッシュ(Slash)は、ジャームス(Germs)やエックス(X)、ザ・ブラスターズ(The Blasters)などの作品をリリース。ロサンゼルスのパンク・シーンを盛り上げました。

 リプレイスメンツ(The Replacements)やソウル・アサイラム(Soul Asylum)が所属していた、ミネソタ州ミネアポリスのツイン・トーン(Twin/Tone)、インダストリアルに特化したワックス・トラックス!(Wax Trax!)など、地域やジャンルに根ざしたレーベルも、生まれ始めます。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンド、および関連バンドのディスクガイドです。

Various Artists “No New York” (1978 Antilles)

コンピレーション・アルバム 『ノー・ニューヨーク』 (1978年 アンティルス)

 ブライアン・イーノがプロデューサーを務めた、ノー・ウェーヴを代表する4バンドの音源を収録したコンピレーション。ノー・ウェーヴは短命かつ限定的なムーヴメントだったので、これ1枚を聴けば、概要はつかめるでしょう。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・パンクの実験性を、さらに先鋭化したサウンドが聴けます。残念ながら、今のところデジタル配信は無いようです。


James Chance & The Contortions “Buy” (1979 ZE Records)

ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ 『バイ』 (1979年 ZEレコード)

 『No New York』にも参加していた、コントーションズの1stアルバム。バンドを率いるジェームス・チャンスは、フリージャズの分野でも活動する、サックス奏者。

 「ロックとジャズの融合」と書くと、あまりにも単純化が過ぎますが、トライバルなビートと、アヴァンギャルドなフレーズが合わさり、ポストパンクをフリージャズの方向に先鋭化させたようなサウンドを作り上げています。

 


Lydia Lunch “Queen Of Siam” (1980 ZE Records)

リディア・ランチ 『クイーン・オブ・シャム』 (1980年 ZEレコード)

 『No New York』に参加した、ティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス(Teenage Jesus & The Jerks)のメンバーだったリディア・ランチの初ソロ・アルバム。

 ピアノやホーンが用いられ、サウンドは華やかですが、ハーモニーとメロディーには、実験性が色濃く出ています。

 


Black Flag “Damaged” (1981 SST)

ブラック・フラッグ 『ダメージド』 (1981年 SST)

 ボーカルにヘンリー・ロリンズを迎え制作された、ブラック・フラッグの1stアルバム。

 前のめりに疾走するリズムと、ざらついたサウンド、絞り出すようなボーカルと、ハードコア的な要素を多分に含みながら、3曲目「Six Pack」のように、各楽器が有機的に組み合うアンサンブルも共存しています。

 


Minutemen “The Punch Line” (1981 SST)

ミニットメン 『ザ・パンチ・ライン』 (1981年 SST)

 カリフォルニア州ロサンゼルス・サンペドロ出身のバンドの1stアルバム。ジャンルとしてはハードコア・パンクに括られるのでしょうが、リズムはファンクのようにシャッフルしたり、前につんのめるようだったりと、なかなか複雑。

 ルーツ・ミュージックからの影響も感じる、奥の深い音楽を作り上げています。初期SSTを代表するバンドのひとつ。

 


Meat Puppets “Meat Puppets” (1982 SST)

ミート・パペッツ 『ミート・パペッツ』 (1982年 SST)

 アリゾナ州フェニックス出身のバンド、ミート・パペッツの1stアルバム。

 前のめりに疾走していくハードコア・パンクを基調とした音楽性ですが、ギターのねじれたフレーズや、バンド全体で揺らぐようなアンサンブルからは、のちのオルタナティヴ・ロックの要素も感じられます。


Bad Brains “Bad Brains” (1982 ROIR)

バッド・ブレインズ 『バッド・ブレインズ』 (1982年 ロアー)

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人のハードコア・パンク・バンド、バッド・ブレインズの1stアルバム。ニューヨークのROIRというレーベルからのリリース。

 彼らの音楽性は、しばしばハードコアとレゲエやファンクなど、複数のジャンルが融合していると説明されます。本作も、高速なリズムに乗って、直線的に走るだけではない、スウィング感のあるアンサンブルが展開。3rdアルバム『I Against I』は、SSTからリリースされています。

 


The Teen Idles “Minor Disturbance” (1980 Dischord)

ティーン・アイドルズ 『マイナー・ディスターバンス』 (1980年 ディスコード)

 ディスコードの記念すべき、カタログ・ナンバー1番。イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが、高校時代に組んでいたバンドのEP作品。

 8曲入りで、収録時間はわずか9分20秒。スピード重視の疾走感に溢れたハードコア・パンクが、展開されています。

 


Minor Threat “Out Of Step” (1983 Dischord)

マイナー・スレット 『アウト・オブ・ステップ』 (1983年 ディスコード)

 マイナー・スレットの1stアルバムであり、唯一のオリジナル・アルバム。ハードコア・パンクを代表するバンドらしく、タイトで疾走感にあふれた演奏が繰り広げられます。

 しかし、ただ直線的に速いだけではなく、アンサンブルには凝ったところもあり、ポスト・ハードコアへと繋がる要素も垣間見える1作。

 


R.E.M. “Murmur” (1983 I.R.S.)

R.E.M. 『マーマー』 (1983年 I.R.S.)

 カレッジ・ロックの申し子、R.E.M.のデビュー・アルバム。ギターを主軸に据えながら、単にギターロックとは呼びがたい、実験的なフレーズや、もやのかかったようなサイケデリックな音像が共存。

 その音楽性は、ポストパンクのようでもあり、ギターポップのようでもあり、ほのかに60年代の香りも漂います。メンバーの音楽オタクっぷりが垣間見え、当時の知的な大学生に支持されたのも、納得のアルバム。

 


関連バンド作品の個別レビュー

Bad Brains – バッド・ブレインズ
I Against I (SST 1986)

Bluetip – ブルーチップ
Dischord No. 101 (Dischord 1996)
Join Us (Dischord 1998)
Polymer (Dischord 2000)

Dead Kennedys – デッド・ケネディーズ
Fresh Fruit For Rotting Vegetables (Alternative Tentacles, Cherry Red 1980)

Descendents – ディセンデンツ
Milo Goes To College (New Alliance 1982, SST 1987)
I Don’t Want To Grow Up (New Alliance 1985, SST 1987)

Dinosaur Jr. – ダイナソーJr.
You’re Living All Over Me (SST 1987)
Bug (SST 1988)

Fugazi – フガジ
In On The Kill Taker (Dischord 1993)
Red Medicine (Dischord 1995)
The Argument (Dischord 2001)

Germs – ジャームス
(GI) (Slash 1979)

Hüsker Dü – ハスカー・ドゥ
New Day Rising (SST 1985)

James Chance & The Contortions – ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ
Buy (ZE Records 1979)

James White & The Blacks – ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス
Off White (ZE Records 1979)

Meat Puppets – ミート・パペッツ
Meat Puppets (SST 1982)
Meat Puppets II (SST 1984)
Up On The Sun (SST 1985)
Mirage (SST 1987)
Huevos (SST 1987)
Monsters (SST 1989)

Minor Threat – マイナー・スレット
Out Of Step (Dischord 1983)
First Two Seven Inches (Dischord 1984)

Nation Of Ulysses – ネイション・オブ・ユリシーズ
13-Point Program To Destroy America (Dischord 1991)
Plays Pretty For Baby (Dischord 1992)

Rites Of Spring – ライツ・オブ・スプリング
Rites Of Spring (Dischord 1985)

Sonic Youth – ソニック・ユース
EVOL (SST 1986)

X – エックス
Los Angeles (Slash 1980)
Wild Gift (Slash 1981)

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10, ニューヨーク・パンク (1974年〜)


目次
イントロダクション
ニューヨーク・パンクの誕生 (1970年代前半〜)
イギリスでのインディー・レーベルの隆盛
アメリカでのインディー・レーベルの隆盛
パンクからの派生 (1970年代後半〜)
ロック誕生からUSインディーまでの流れ
ディスク・ガイド

イントロダクション

 ここまで順番にお読みいただいた方には、内容が重複する部分もありますが、ここからの「第2部」は実際に各地でインディー・シーンが形成され、インディペンデント・レーベルが生まれていく過程をご紹介します。

 「第1部」に比べると、インディーズのバンド名やレーベル名を多く挙げていきますので、違った印象でお読みいただけると思います。まずは、1970年代後半から、全米各地にインディー・シーンが生まれていく前段階、ニューヨーク・パンクの誕生から話を始めましょう。

 と、その前に、なぜパンクをUSインディー・ロックの出発点に位置づけるのか、ご説明します。詳細は後述しますが、パンクの特徴のひとつとして、既存の音楽やシステムへの、反抗であることが挙げられます。

 巨大な資本が投入されたシステムと、大衆に寄り添ったコマーシャルな音楽。そうした体制へのカウンター精神が、パンク・ブームが去った後にも、一部のバンドに多大な影響を及ぼし、ハードコアやローファイへと変化、さらにはオルタナティヴ・ロックへと繋がっていくのです。

 パンクからジャンルが派生していく流れを意識すると、これから記述する話の見通しも、良くなることでしょう。それでは、まずは1970年代のニューヨークから、話を始めます。

ニューヨーク・パンクの誕生 (1970年代前半〜)

 ロックが生まれたのは1950年代。当時から、サン・レコードやチェス・レコード、エレクトラなど、ロックを扱うインディペンデント・レーベルは生まれていました。

 しかし、現在の「USインディー・ロック」に、直接的に繋がるレーベルと文化が生まれ始めるのは、1970年代後半から。そのUSインディー・ロック文化の前段階となるのが、ニューヨーク・パンクおよび世界規模でのパンク・ムーブメントです。パンクは音楽性と精神性の両面で、のちのUSインディー・ロックの基礎となりました。

 パンク・ロックの第一世代というと、セックス・ピストルズやザ・クラッシュなど、ロンドン・パンクのバンドを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。僕自身もそうです。

 しかし、後に「ニューヨーク・パンク」に括られることになるバンド群が結成されたのは、ロンドン・パンクのバンドよりも少しだけ早く、ニューヨークのバンドを模倣するかたちで、ロンドンのパンク・バンドたちが結成されていったと言われています。

 では、ニューヨーク・パンク誕生のきっかけとなり、彼らに影響を与えたバンドや文化は何か? バンドでいえば1960年代に活躍した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやMC5、イギー・ポップ率いるザ・ストゥージズなど。文化現象を挙げると、やはり1960年代に起こったビート・ジェネレーションやヒッピー・ムーブメントなど、既存の価値観に反対するカウンターカルチャーです。

 アート性と実験性の高い音楽を志向した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。R&Bを下敷きにした音楽性を持ちながら、過激なライブ・パフォーマンスと言動が評判を呼んだMC5。そして、MC5と共にガレージ・ロックの代表バンドと目され、こちらも過激なライブ・パフォーマンスが注目されたザ・ストゥージズ。

 いずれのバンドも、1960年代当時は、商業的な成功を収めることはできませんでした。しかし、音楽産業が発展し、メジャー・レーベルがビッグ・ヒットを生み出すなかで、メジャーとは一線を画する音楽性を持つ彼らは、カウンターとして一部の音楽ファンの熱烈な支持を集めることになります。

 そうして、彼らに影響を受け、1973年から74年にかけて結成されたのが、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラモーンズの3バンド。彼らは音楽的には、多くの共通点は認められないものの、やがて「ニューヨーク・パンク」というジャンルに分類され、その代表バンドと目されるようになります。

 ちなみに「パンク・ロック(punk rock)」という言葉は、1960年代から1970年代前半のガレージ・バンドを形容するため、アメリカの批評家たちが用いたのが、起源だと言われています。

 1970年代に入ると、ロックは良くも悪くも、ますます巨大な音楽産業に組み込まれ、また音楽的にも、ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックなど、テクニカルで洗練されたものが主流となっていきます。そんな時代に逆行するように、大衆に受け入れられることよりも、自らの表現にプライオリティを置いた、ニューヨーク・パンクのバンドたち。

 ライダースジャケットとダメージ・ジーンズを着こみ、初期衝動をそのまま音にしたような、シンプルなロックを鳴らし続け、最も「パンク・ロック」のパブリック・イメージに近いバンドと言ってもよいラモーンズ。文学的な歌詞と、アート性の高い音楽を併せ持ったテレヴィジョン。美術大学出身らしい知性を持ち、アフリカ的なリズムを取り入れるなど、ロックの枠にとどまらない音楽を展開するトーキング・ヘッズ。

 例に挙げた3バンドは、それぞれその後のUSインディー・シーンに、多大な影響を与えることになります。

イギリスでのインディー・レーベルの隆盛

 続いて、イギリスに視点を移しましょう。ピストルズをはじめ、初期のロンドン・パンクのバンドにおいて強調されるのは、演奏や作曲のスキルよりも、とにかく叫びたいことがある!という態度。言い換えれば、演奏家としてのプロフェッショナリズムよりも、アマチュアリズムに貫かれた音楽です。

 ピストルズは、数々のトラブルを引き起こしながらも、1stアルバムをメジャーのヴァージン・レコードより発売。ピストルズと並び、ロンドン・パンクを代表するバンドであるザ・クラッシュも、メジャーのCBSからのデビュー。しかし、彼らと共に、ロンドン・パンクの三大バンドとも呼ばれるザ・ダムドは、インディーズのスティッフ・レコード(Stiff Records)からデビューしています。

 それまでは、メジャー・レーベルに引き上げられる形でデビューというのが基本だったのが、パンクの誕生とブームを境目に、徐々に小規模なレーベルが、自らの理想に従って作品をリリースする、というインディーズ文化が誕生。その理由は、音楽性と精神性の両面で、パンクは本質的にメジャーとは相反するものであること、メジャーへのカウンターとして、個性的かつマイナーな音楽を支持するリスナー層が形成されていたこと、などが挙げられます。

 こうしてイギリスでは、1970年代後半から、パンクやポストパンクをリリースするインディペンデント・レーベルが、次々と起こります。ベガーズ・バンケット、ラフ・トレード、チェリーレッド、ファクトリー、4ADの各レーベルは、1977年から1979年にかけて設立。その後のイギリスのポピュラー音楽史においても、重要な役割を果たす多くのレーベルが、この時期に活動を始めています。

アメリカでのインディー・レーベルの隆盛

 同じような動きは、アメリカでも起こります。パンク的なDIY精神を持った、あるいはアングラ志向の音楽を目指すバンドが増加し、各地でメジャー的な音楽とは一線を画したシーンが誕生。同時に、それらの受け皿として、地域や音楽性に根ざしたレーベルが多数生まれます。

 イギリスでは、ベガーズ・バンケットやラフ・トレードをはじめ、レコード店がレーベルを開業する例が多かったのに対し、アメリカではバンド自身が設立、あるいは大学構内のカレッジラジオ局や、ファンによる同人誌(ファンジン)が母体となり、レーベルへと発展する例が多数でした。

 レコード店という既存の組織と販路を利用し、発展していったイギリス。有志が集ったコミュニティ単位で、発展していったアメリカ。多角的にいろいろな要素が絡んでいるため、このような差異が生まれた理由は、一言ではあらわせません。しかし、あえて理由をひとつ挙げるならば、アメリカの国土の広さです。

 イギリスでは、レコード・ショップが立ち上げたレーベル同士が協力し、各地のショップを繋いで、独自の販路を構築することができました。それは、国土がコンパクトだったからこそ、可能だったこと。

 イギリスに比べて、遥かに広大な国土を持つアメリカでは、都市ごとの移動が容易ではありません。アメリカにも、レコード・ショップがレーベルを始めた例はいくつもありますが、比率にすると小さいものでした。その理由のひとつは、小規模な地方のレコード店同士が提携しにくく、ショップがレーベルを始めるメリットが少ないためでしょう。

 また、インターネットが普及した現在と比較すると、当時は情報が伝わる量は格段に少なく、スピードも遅かったはず。物理的な距離が、文化的な違いを生み出し、それぞれの街ごとに、独特な音楽文化を育むことになったのではないでしょうか。

 こうしてアメリカでは、メジャーとインディーズの差が、イギリス以上にクッキリと分かれていきます。1980年代に入ると、メジャー・レーベルはMTVと全米規模の流通網を用いてメガヒットを飛ばし、インディー・レーベルは各地で個性的な音楽を発展させていくことになるのです。

 もうひとつ、ロンドン・パンクとニューヨーク・パンクについて、相違点を指摘しておきます。政治的に反抗的なロンドンに対し、音楽的に反抗的なニューヨーク。両者には、精神性にもこのような違いがありました。

 ピストルズをはじめとした初期ロンドン・パンクのバンドは、既存の社会制度や政治体制への批判が、音楽自体よりも前景化されていました。ピストルズの「Anarchy in the U.K.」や、ザ・クラッシュの「White Riot」は、特に象徴的。既存の体制への反抗心が、音楽への大きなモチベーションになっています。

 それに対してニューヨーク・パンクのバンドは、社会の制度ではなく、音楽の制度へ反抗的な態度をとっています。あくまで音楽的にはシンプルなロックンロールを下敷きにしているロンドン・パンクに対し、テレヴィジョンやトーキング・ヘッズなどニューヨークのバンドは、内省的な歌詞や非ロック的なリズムの導入など、既存のメジャー路線のポップスには背を向け、芸術的なこだわりを見せています。

 彼らがこのような音楽を志した理由のひとつとして、タブーに挑んだ歌詞と、不協和音を用いた実験性の高い音楽を志向した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからの影響が、少なからずあるでしょう。

 音楽的に反抗心を見せることに、軸足を置くバンドが多い、ニューヨーク・パンク。そのため、ニューヨーク・パンクに分類されるバンドは、ロンドン・パンクと比較して、音楽性が多岐に渡ります。

 前述したラモーンズ、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズに加え、ロンドン・パンクに近い質感のニューヨーク・ドールズ(New York Dolls)、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ(Johnny Thunders & The Heartbreakers)、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ(Richard Hell & The Voidoids)、詩人としても活躍したパティ・スミス(Patti Smith)、ニュー・ウェイヴ色の濃いブロンディ(Blondie)やスーサイド(Suicide)などなど。

 もちろん、ロンドン・パンクのザ・クラッシュが徐々にレゲエに接近したり、ニューヨーク・パンクのラモーンズがシンプルな3コードのロックを極めたりと、必ずしも「ロンドンとニューヨーク」「芸術性と政治性」といった二項対立で、単純化できる話題ではありません。

 しかし、大きな流れとして、ロンドンとニューヨークにおける精神性の違いを指摘しておくことは、その後のインディー・ロックへの流れをつかむ上でも参考になるため、ここで取り上げました。

パンクからの派生 (1970年代後半〜)

 次に、パンクが生まれ、やがて多様なジャンルへと発展していく過程を、振り返りましょう。

 ピストルズがシングル『Anarchy in the U.K.』で、1976年にメジャー・デビューしたあたりから、世界的に広がったパンク・ムーヴメント。その後、パンクは沈静化に向かい、ニュー・ウェイヴやポストパンクなど、様々なジャンルへと枝分かれしていきます。

 パンク・ロック、特にイギリスのロンドンで生まれたセックス・ピストルズの衝撃は凄まじく、音楽のみならずファッションも含めたムーヴメントとして、世界中でセンセーションを巻き起こしました。しかし、メンバー間およびマネージャーのマルコム・マクラーレンの人間関係の悪化により、バンドは空中分解。

 ちなみにマルコム・マクラーレンは、1974年に渡米した際、ニューヨーク・ドールズと出会い、彼らの非公式なマネージャーに就任。ニューヨーク・ドールズは2年後の1976年に解散してしまいますが、マクラーレンは当時のニューヨーク・パンクに多大な影響を受け、のちのピストルズ結成へと繋がったと言われています。

 1978年の実質的なピストルズ解散に呼応するように、パンク・ムーヴメントも終息に向かいます。その後、イギリスではロンドン・パンクの影響を受けつつ、電子楽器やダンス・ビートを取り入れた、ニュー・ウェーヴやポストパンクが勃興。新たな時代に入ります。

 話をアメリカに戻しましょう。ロンドン・パンクほどは、世界的にセンセーションを巻き起こすことはなかったニューヨーク・パンクですが、パンクからポストパンクへという流れは、ここアメリカでも起こります。というより、テレヴィジョンやトーキング・ヘッズなどは、元々シンプルなパンク・ロックの範疇には、収まりきらない音楽性を持っていた、とも言えるでしょう。

 パンクの攻撃性をさらに先鋭化させたハードコア・パンク、レゲエやファンクを取り入れたポストパンク、実験性とアート性を増したノー・ウェーブ、ディスコや電子音楽に接近したニュー・ウェーヴ、といった具合に次々と新しい音楽を志向するバンドが、全米各地に生まれます。

 そして、メジャー・レーベルには受け入れらない、そもそも当人たちがメジャーと契約して大ヒットを飛ばすことを目指さないバンドたちの受け皿として、各地にジャンルや地域に特化した、個性的なインディー・レーベルが生まれていくのです。

ロック誕生からUSインディーまでの流れ

 では最後に、ロックが誕生してから、USインディー・レーベルが生まれるまでの過程を、ざっとまとめておきます。

 まず1950年代にロックンロールが誕生。その後、1960年代に入ると、イギリスのビートルズやローリング・ストーンズの活躍により、商業的にも音楽的にも、ロックの影響力が拡大。この時期に、ロックンロールは、単に「ロック」と呼ばれるようになります。

 さらに1960年代から1970年代にかけて、フォーク・ロック、ガレージ・ロック、サイケデリック・ロック、ハード・ロック、プログレッシブ・ロックなど、多くの派生ジャンルが生まれ、ロックの人気と影響力はますます増加。

 それと並行して、地下水脈のように、前述のヴェルヴェット・アンダーグラウンドや、ニューヨーク・パンクに括られる一連のバンドも誕生。拡大を続けるロック産業の裏で、メジャー・レーベルの枠には収まらない、豊かな音楽が育まれていきます。

 あまり話を単純化しすぎるのは良くありませんが、補助線として、具体的なバンド名を挙げながら、いくつかの流れも示しておきたいと思います。

 まず、60年代のMC5やザ・ストゥージズ等のガレージ・バンドから、ラモーンズ、その後のハードコア・パンクへと繋がる、攻撃性やシンプリシティを引き継いでいく流れ。ジャンルで示すと、以下になります。
 ガレージ・ロック→ニューヨーク・パンク→ポストパンク、ハードコア、ポスト・ハードコアなど

 そして、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドから始まり、テレヴィジョンへ、さらにソニック・ユースへと繋がっていく流れ。ジャンルで示すと下記のとおり。
 アート・ロック→ニューヨーク・パンク→ノー・ウェーブ、ノイズ・ロックなど

 もちろん、これは恣意的な例であり、単純化して示そうと思えば、いくらでも示せるものです。重要なのは、このような縦線の流れが、いくつも存在し、多くの個性的な音楽とジャンルが生まれたということ。

 地上ではメジャー・レーベルの資本による、ビッグ・ヒットが生み出され、わかりやすい大きな歴史が書かれるのに対して、地下では脈々と、無数の小さな歴史が生まれていたのです。USインディー・ロックの魅力のひとつは、この多様性にあります。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンド、および関連バンドのディスクガイドです。

The Velvet Underground “The Velvet Underground And Nico” (1967 Verve)

ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』 (1967年 ヴァーヴ)

 1967年に発売された、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー・アルバム。芸術家のアンディ・ウォーホルが、プロデューサーを務めています。ヴェルヴェッツという略称で呼ばれることもあります。

 アンディ・ウォーホルがプロデューサーとジャケットのデザインを務めたという話題性も含め、実験性とアート性を併せ持った本作は、その後のニューヨーク・パンク、ノー・ウェーブ等へ直接的に繋がるアルバム、と言ってよいでしょう。

 わかりやすく爆音ノイズや不協和音を鳴らすのではなく、ゆったりとしたテンポに乗せて、静かに壊れていくような音楽性と、当時のタブーに挑んだ内省的な歌詞が、本作の魅力。

 


The Stooges “The Stooges” (1969 Elektra)

ザ・ストゥージズ 『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』 (1969年 エレクトラ)

 イギー・ポップが在籍したガレージロック・バンド、ストゥージズのデビュー・アルバム。プロデューサーを務めるのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル。

 ガレージ・ロックかくあるべし!と言いたくなる、ざらついたサウンドで、ドタバタ感のある立体的なアンサンブルが展開される本作。音圧の高い現代的なハイファイ・サウンドと比較すると、迫力不足に感じられるかもしれませんが、初期衝動をそのまま音に変換したようなプリミティヴなサウンドは唯一無比。

 その後のパンク・バンドに、多大な影響を与えました。4曲目の「No Fun」は、セックス・ピストルズがカバーしています。ピストルズによるカバーは、元々はシングル『Pretty Vacant』のB面に収録。現在はアルバム『Never Mind The Bollocks, Here’s The Sex Pistols』に、ボーナス・トラックとして収録されています。

 


Ramones “Ramones” (1976 Sire)

ラモーンズ 『ラモーンズの激情』 (1976年 サイアー)

 ラモーンズのデビュー・アルバム。ニューヨーク・パンクに括られるバンドには、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響がにじむ、アート志向のバンドが多いのですが、ラモーンズはロックのシンプリシティを追求し続けたバンド。

 3コードのシンプルな進行、キャッチーなメロディー、英和辞典が無くとも理解できる親しみやすい歌詞。ロックンロールの魅力と快楽が、凝縮された音楽を作り続けました。

 1stアルバムである本作にも、1曲目「Blitzkrieg Bop」、3曲目「Judy Is A Punk」、4曲目「I Wanna Be Your Boyfriend」など、名曲を多数収録。

 


Television “Marquee Moon” (1977 Elektra)

テレヴィジョン 『マーキー・ムーン』 (1977年 エレクトラ)

 1973年に結成されたバンド、テレヴィジョンのデビュー・アルバム。ラモーンズと同じくニューヨーク出身ながら、その音楽性は大きく異なります。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやアヴァンギャルド・ジャズからの影響が強く、各楽器が複雑に絡み合うアンサンブルと、時に激しく唸りをあげ、時にアヴァンギャルドなフレーズを繰り出すギターが耳を掴みます。

 歌詞とサウンドの両面から、知性と狂気がにじみ出る、ニューヨークのアングラらしい質を備えた名盤。

 


Talking Heads “Talking Heads: 77” (1977 Sire)

トーキング・ヘッズ 『サイコ・キラー’77』 (1977年 サイアー)

 ニューヨーク・パンクに属するバンドのひとつに目される、トーキング・ヘッズの1stアルバム。しかし、ニューヨーク・パンクに分類される他のバンドにも言えることですが、シンプルなロックンロールを下敷きにしたパンクというより、ニュー・ウェイヴやポストパンクに近い音楽性を持っています。

 本作も、8ビートやディストーション・ギターなどの分かりやすいロック色は薄く、リズム構造もアンサンブルも、より複雑で立体的。クセのあるリズムと、ねじれたアンサンブル、演劇じみたボーカルなど、知性と実験性を含んだ音楽を展開しています。

 


Talking Heads “Remain In Light” (1980 Sire)

トーキング・ヘッズ 『リメイン・イン・ライト』 (1980年 サイアー)

 トーキング・ヘッズの4thアルバム。1stアルバムから比較して、ロック色はさらに後退。ニュー・ウェイヴやポストパンクも飛び越えて、ワールド・ミュージックおよび伝統音楽からの影響が強く出た、非ロック的な音楽を繰り広げています。

 多種多様なリズムが取り込まれ、4人組のバンドのフォーマットに消化され躍動する本作は、今聴いても十分にオリジナルで刺激的。トライバルなリズムに、西洋音楽的なコーラスワークが重なり、ダンス・ミュージックとしても、新しいロックとしても秀逸。

 小刻みなリズムに、多層的に楽器とコーラスが重なっていく、3曲目「The Great Curve」など、本当に最高です!

 


Sex Pistols “Never Mind The Bollocks Here’s The Sex Pistols” (1977 Virgin)

セックス・ピストルズ 『勝手にしやがれ!!』 (1977年 ヴァージン)

 ロンドン・パンクのみならず、パンク・ロックを象徴するバンドと言っても過言ではない、ピストルズが残した唯一のオリジナル・アルバム。

 音楽的には、3コードを基本としたシンプルなロック。ハード・ロックに比べて音もしょぼいし、プログレッシブ・ロックに比べてテクニックは稚拙。初めて聴いたときは、このバンドがどうして、伝説的な存在なんだろう?と不思議に思ったものです。

 しかし、しばらく聴いていると、演奏からにじみ出る、怒りや苛立ちなど溢れ出るエモーションに圧倒され、いつの間にか虜になっていました。音楽には、感情を伝える力があり、楽譜にあらわせないテクニックがあるということを、教えてくれる1枚。ジョニー・ロットンの癖のあるボーカルも唯一無比。

 


The Clash “The Clash” (1977 CBS)

ザ・クラッシュ 『白い暴動』 (1977年 CBS)

 ピストルズと並び、ロンドン・パンクを代表するバンド、ザ・クラッシュの1stアルバム。リリースしたオリジナル・アルバムは1枚、実質2年ほどの活動期間で解散したピストルズに対し、クラッシュは6枚のアルバムをリリース。

 シンプルなロックンロールからスタートしながら、徐々に多様なジャンルを取り込み、キャリアを通して音楽性を広げていきました。

 本作は、デビュー・アルバムらしく疾走感に溢れ、歌詞にはダイレクトなメッセージが並びます。ピストルズの『Never Mind The Bollocks Here’s The Sex Pistols』と並び、聴き手をアジテートする力に満ちた名盤。

 


The Damned “Damned Damned Damned” (1977 Stiff)

ダムド 『地獄に堕ちた野郎ども』 (1977年 スティッフ)

 ピストルズ、クラッシュと共に、ロンドン・パンクの三大バンドに数えられるダムドの1stアルバム。現在の地名度は、ピストルズとクラッシュに比べて劣るものの、1976年にこれら3バンドの中でいち早くシングルをリリースしたのは、このダムドです。

 シンプルなリズム構造とコード進行に、過激な歌詞が重なり、初期パンクの魅力を存分に持った1作。

 

次のページ「11, パンク・ブーム以後の時代 (1978年〜)」へ





6, USインディーロックの誕生


 このページでは、USインディーロックがどのように生まれたのか、おおまかな流れを把握できるよう、ご紹介したいと思います。

産業ロックとMTV

 1970年代以降、アメリカの音楽産業は拡大を続けます。しかし、レコードの価格上昇、テープ・コピーの増加、アメリカ社会全体の不況などを原因に、1978年を境にレコード生産が、マイナス成長の時期に入ります。(なんだか、最近の音楽業界の話みたいですね…)

 そのため、メジャー・レーベルの縮小やリストラも増加。リスクを伴う若手の発掘ではなく、手堅く売上を狙える中堅やベテランのリリースに、重きを置くようになります。

 そんな状況下で、1981年にMTVの放送が開始されます。MTVは、ミュージック・ビデオを中心に、音楽番組を24時間流し続ける、音楽専門のケーブルテレビ・チャンネルです。

 当時のテレビの影響力は今以上に絶大で、1980年代には多数のビッグ・ヒット、スーパー・スターが誕生します。マイケル・ジャクソンもその一人。1982年に発売された彼のアルバム『スリラー』は、1984年末までにアメリカ国内だけで約2000万枚を売り上げます。

 前述したようにレコード業界の不況により、1970年代後半から、ある程度の売り上げが期待できる、中堅以上のバンドに力を入れていた各メジャー・レーベル。言い換えれば、冒険をしない保守的なリリースが増加していきました。

 しかし、商業的には各レーベルの思惑通り、1970年代後半から数々のヒットを飛ばします。さらに1980年代以降は、MTVの流れに乗った、華やかでスタイリッシュなバンドも増加。ポップでキャッチー、ロック的な自意識が薄く、レコード会社の言いなりのようにも見えるこれらのバンドは、「産業ロック」(corporate rock)とも呼ばれるようになります。

インディーズ文化の特徴

 1970年代後半の不況を乗り越え、MTVや巨大なスタジアム・コンサートに例証されるように、アメリカの音楽産業は巨大化していきます。しかし、それは商業性を徹底させることにもなり、メジャー・レーベルは売れる音楽、それも中途半端なヒットではなく、メガ・ヒットを狙ったマーケティングに徹します。

 そんななか、メジャー的ではない音楽を志向するバンドが、全米各地で生まれ始めます。彼らは、音楽性と人気の面でメジャーとは契約を結べない、あるいは最初からメジャーで売れることを一義的には考えず、各地にインディペンデント・レーベルが生まれ、インディー・シーンが形成されていきます。

 アメリカでは1950年代にも、エルヴィスをデビューさせたサン・レコード、ブルースやR&Bを扱うチェス・レコードなど、各地でインディペンデント・レーベルが活躍していました。当時のインディペンデント・レーベルも、音楽的にメジャーの網にかからないアーティストのリリースが中心でした。

 また、シカゴ・ブルースを扱うチェス・レコード、ニューオーリンズのアーティストの発掘に積極的だったインペリアル・レコード、南部のブラックミュージックを好むサン・レコードといった具合に、当時からインディペンデント・レーベルは、音楽性や地域性と密接に結びついていました。

 これは、地元の音楽を紹介するために設立されることが多く、小規模なためメジャー・レーベルよりも設立者の意思を反映しやすい、インディペンデント・レーベルの特徴であり利点です。また、バンド自身が自分たちの作品をリリースするために、自らレーベルを立ち上げることもしばしばあります。

各地のインディー・シーンの誕生

 こうして、1970年代の後半から1980年代にかけて、全米各地でインディー・シーンが形成され、個性的で魅力的な音楽が多数生まれます。

 各地のインディー・シーン形成に大きく貢献したのが、音楽好きな個人やグループが発行するファンジン(ファンが作る同人誌)と、アメリカでは大学キャンパス内に開設され、学生主体で運営されるカレッジ・ラジオ局です。

 どうしてもレーベルやバンドにスポットライトが当たりがちですが、このようにコミュニティ単位で発展したのが、アメリカのインディー・シーンの特徴です。

 それぞれの街で、それぞれの文化と人々に密着したシーンが生まれる。その多様性とダイナミズムが、USインディーズの大きな魅力のひとつです。

 なぜ、この地域ではパンクが流行ったのか、なぜこの街のこのレーベルはオルタナ・カントリーに強いのか、なぜこんな小さな街から多数の魅力的なバンドが生まれるのか…そんなことを考えただけでも、ワクワクしてきませんか?

 まだまだ書きたいことは尽きず、各都市のシーンの歴史や特徴については、ここでは書き切れないので、また別記事に書きたいと思います。お読みいただきありがとうございました!

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