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5, ロックの誕生と歴史


 このページでは「ロックンロール」と呼ばれる音楽が生まれ、やがて単に「ロック」という名称で定着していく歴史を、1950年代からざっと振り返りたいと思います。

ロックンロールの誕生

 ロックンロールは、黒人音楽であるリズム&ブルースと、白人音楽であるカントリー&ウェスタンが融合して誕生した、と一般的に説明されます。やや単純化が過ぎるとしても、大きな流れとしては、間違いではないはずです。重要なのは、いくつかの異なる音楽ジャンルが、融合して誕生したということ。

 ロックンロールという言葉が使われ始めたのは、1950年代初頭だと言われています。それから、1950年代中盤になると、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードなどがヒットを飛ばし、ロックンロールがジャンルとして認識され、定着していきます。

 また、ロックンロールのスターを発掘したのが、各地のインディペンデント・レーベルであったのも、注目すべき点です。前述した3名を例にとっても、エルヴィスはテネシー州メンフィスのサン・レコード、チャック・ベリーはイリノイ州シカゴのチェス・レコード、リトル・リチャードはカリフォルニア州ロサンゼルスのスペシャルティ・レコードから、それぞれデビューしています。

 当時のアメリカのレコード市場は、「六大メジャー」と呼ばれる6つのメジャー・レーベルが支配的な立場にいましたが、そこに風穴をあけるようにインディペンデント・レーベルが生まれ始めたのです。

 なぜこのような状況になったのか、それには多角的な理由が絡んでいます。まず「若者」という新しい購買層が生まれたこと、そしてメジャー・レーベルが粗野なロックンロールが売れるとは思わず、時代のニーズに対応できなかったこと、などが挙げられます。

 ロックンロール誕生以前、ティン・パン・アレー形式で製作されるポップスは、特定のリスナーを想定していませんでした。言い換えれば、家族で安心して聴ける、甘くて口当たりのいいポップスを量産していたということです。そのため、ティン・パン・アレーの楽曲には、ドラッグ、アルコール、政治、性的な話題などは、直接的なかたちでは表現されません。

 それに対してロックンロールは、それまでのタブーと思われる題材を歌い、大人も子供も安心して楽しめる楽曲ではなく、「若者」という特定のターゲットに訴える音楽を鳴らしていたということです。

 インディペンデント・レーベルが、メジャーレーベルの網にかからない音楽を拾い上げる、という構造は、その後のUSインディーズの構造と共通していると言っていいでしょう。

 1950年代中盤から、ロックンロールはアメリカを席巻します。しかし、1950年代後半になると、エルヴィスの徴兵、バディ・ホリーらの事故死、チャック・ベリーの逮捕などが重なり、ロックンロールは瞬く間に下火になっていきます。

ロックンロールからロックへ

 そんな時にアメリカを征服したのが、ビートルズを筆頭にしたイギリスのバンドです。エレキ・ギターのサウンドや、力強いビートといった、ロックンロールの特徴を下敷きに、彼らはさらに多くの音楽ジャンルを参照し、多彩でポップな音楽を作り上げていきます。多くのイギリス出身のバンドが、アメリカを席巻した現象は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれます。

 アメリカ国内でも、ジミ・ヘンドリックスやドアーズ、ジャニス・ジョプリンなど、それまでのロックンロールの範疇には収まらない音楽が次々と登場し、1960年代中頃から「ロックンロール」は、単に「ロック」と呼ばれるようになります。

 さて、このティン・パン・アレー形式のポップスから、ロックンロール、さらにロックへの流れで重要なのは、消費の対象が楽曲から人へと移ったことです。

 作曲、編曲、演奏まで徹底した分業制を敷き、工場のように楽曲を生産するティン・パン・アレー形式。商品となるのは、あくまで楽曲であり、歌手は分業制の一部でしかありません。

 もちろん、1940年代からフランク・シナトラのようなスターは存在しましたが、エルヴィス、ビートルズと若者にターゲットを絞ったロックは、若者たちの間でカリスマ的な人気を誇り、徐々に人々の関心が「楽曲」から「人」へと移動します。

 ロックの歌詞には、それまでのティン・パン・アレー式のポップスには表現されない、政治性や性的な話題などが盛り込まれ、アーティスト側の自意識もますます前景化されます。

 また、ビートルズがカバー曲からスタートし、それから自作曲に移行したことも象徴的ですが、1960年代以降のバンドは、自分たちで作詞作曲し、自分たちで演奏する自作自演のスタイルが主流となります。

 このあたりの「楽曲」から「人」への興味および消費対象の移行と、自作自演至上主義とも呼ぶべき思想は、現代の日本で「アイドル」と「バンド」が、あたかもジャンル名であるかのように機能していることにも、繋がってくる話題です。

 1960年代後期以降も、より激しいサウンドを持ったハード・ロックや、前衛性やクラシック的な壮大さを持つプログレッシヴ・ロックなど、イギリスからはロックの範囲を拡大する音楽が、多数生まれます。

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4, アメリカ音楽の歴史


 このページでは、アメリカ音楽の大まかな流れと歴史を、時間軸に沿いながらご紹介いたします。

 1783年にイギリスからの独立を果たしたアメリカ。しかし、当時はまだ政治的にも経済的にも不安定で、国家としての足固めの時期がしばらく続きます。

 19世紀に入り、国内の産業が発展し、人々の生活にも余裕が生まれると、徐々に文学や演劇、そして音楽文化が育ってきます。もちろん、それ以前にも宗教音楽や労働歌(ワーク・ソング)など、人々の生活に密着した音楽は存在していたでしょう。

 しかし、アメリカ固有の音楽が育ち始め、娯楽として音楽を楽しむ構造ができあがった、という点が重要です。当時はCDやテレビなどのメディアは存在しませんから、人々が音楽を楽しむ場所は、主に劇場ということになります。

ミンストレル・ショー

 そんななか、19世紀半ばに「ミンストレル・ショー」と呼ばれる舞台芸能が、アメリカ国内で大流行します。これは、顔を黒く塗った白人が、踊りや音楽を交えた寸劇をおこなう、というものです。ここでは深入りしませんが、差別的な要素を含んだエンターテインメントでした。

 ミンストレル・ショーで使用される音楽は、最初はヨーロッパのオペラなどを下敷きにしたものが多かったものの、徐々にオリジナルの作曲家も生まれ始めます。その1人が、「おおスザンナ」や「ケンタッキーの我が家」を作曲し、「アメリカ音楽の父」とも呼ばれるスティーブン・フォスターです。

 前述したとおり、差別を助長する面もあるミンストレル・ショーは、19世紀末までには人種風刺を含まない「ヴォードヴィル・ショー」に取って替わられます。ヴォードヴィル・ショーも、ミンストレル・ショーと同じく、踊りや手品、漫才、音楽などを披露する舞台芸能です。

シート・ミュージック

 少し話題を変えて、シート・ミュージックをご紹介したいと思います。「シート・ミュージック」という言葉自体は、手書きあるいはプリントされた楽譜を指す言葉です。

 ラジオやレコードが普及する前の19世紀のアメリカでは、このシート・ミュージックが音楽を流通させる手段でした。つまり、現在CDやダウンロードで音楽が流通しているように、当時の楽曲は印刷されたシート・ミュージックのかたちで流通し、購入した人はそれを自宅で演奏し、音楽を楽しんでいたのです。

 特にニューヨークでは、楽譜関連の会社が集まる一角が出現し、その場所は「ティン・パン・アレー」と呼ばれるようになります。ティン・パン・アレーについては、後述いたします。

ブルース

 ブルースは南北戦争が終結し、奴隷解放後の19世紀後半ごろに、アフリカ南部で起こった音楽形式と一般的に説明されます。その起源は、奴隷として西アフリカから連れてこられた人々が歌う、ワーク・ソングやフィールドホラーから発展したものと言われています。ワーク・ソングは、労働の際に呼吸を合わせるために歌われる歌、フィールドホラーは、労働の際の叫び声のようなものです。

 ブルースの特徴として、ブルー・ノートと呼ばれるフラットした音程、12小節AABの形式、日常の出来事や感情を表現した歌詞などが挙げられます。これらの音楽的特徴の一部は、ジャズやロックンロールへも影響を与えます。

 ブルースがポピュラリティを得るきっかけになったのは、1903年のW・C・ハンディによるブルースの「発見」です。ミシシッピ州を旅行中だった作曲家のW・C・ハンディは、タトワイラーの駅で偶然ブルースを演奏するひとりの黒人と遭遇します。ハンディは、このとき耳にした音楽をもとに作曲した曲を発表し「ブルースの父」と呼ばれるようになります。

 1920年代以降アメリカではレコード産業も発展し、1920年にブルース初のレコーディングと言われるメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が録音。その後、チャーリー・パットンやロバート・ジョンソンなどが発見され、ブルースのレコーディングが次々とおこなわれます。

 南部で起こったブルースは徐々に北上し、各地で独自のスタイルを作り上げながら発展していきます。シカゴでは、1950年代にエレキ・ギターなどを用い、ブルースが電化。1960年代には、ブルースの影響は、イギリスのローリング・ストーンズやクリーム等へ引き継がれていきます。

カントリー・ミュージック

 ブルースが、南部のアフリカ系住民から起こった音楽とされるのに対して、カントリー・ミュージックは、ヨーロッパの民謡がアメリカ南部で発展した音楽、と説明されます。特に、スコットランドやアイルランド民謡の影響が濃い、とも言われます。

 カントリー・ミュージックのレコーディングが始まったのは1920年代。当時は「ヒルビリー」「ウェスタン」などと呼ばれていました。1940年代には「カントリー・ミュージック」という呼称が定着し、ロックンロールが誕生する直前の1950年代初頭には、ハンク・ウィリアムズというスターも誕生します。

ティン・パン・アレー

 先ほど、シート・ミュージックのところで触れましたが、ティン・パン・アレーとはニューヨークの楽譜関連の会社が集まっていた一角を指す言葉です。この一角が形成され始めたのは1890年代、まだレコード普及前で、当時はシート・ミュージックを販売する会社が集まっていました。ティン・パン・アレーはアメリカの音楽産業の中心地となり、レコード普及後も影響力をますます強めていきます。

 ティン・パン・アレーの特徴は、その徹底した分業制です。シート・ミュージックを販売していた時代から、作詞家、作曲家、編曲家などを別々に用意し、あたかも工場の流れ作業のように、システマティックに音楽を制作していきました。

 レコードが普及し、第二次大戦後には、キャピトル、コロンビア、デッカ、ビクター、マーキュリー、MGMの「六大メジャー」と呼ばれるレコード会社が業界を牛耳るようになり、ティン・パン・アレーはこれらのメジャー・レーベルに多数の楽曲を提供することになります。

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3, アメリカの発展と膨張


 1776年7月4日に、イギリスからの独立を宣言したアメリカ。その後、独立戦争に勝利し、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を正式に承認します。

 アメリカはその後も領土拡大と移民による人口増加を続け、20世紀には世界の超大国となります。このページでは、その後のアメリカ音楽にとっても重要ないくつかの都市と、アメリカ史のキーワードに沿って、歴史を振り返りたいと思います。

ニューヨーク

 まずは、音楽のみならず数多くのアメリカ文化を生んだ国際都市、ニューヨークの歴史を振り返ります。

 現在のニューヨーク州に、最初に植民地を建設したのはオランダでした。オランダは1614年にフォート・ナッソー(現在のニューヨーク州オルバニー)を建設し、1626年にマンハッタンを原住民から買い取り、ニューアムステルダムを建設します。オランダはここを毛皮貿易の拠点として、利益をあげます。

 しかし、徐々に植民地を拡大するイギリスとの争いに敗れ、1664年にニューアムステルダムはイギリスにより征服。ニューヨークと改称されます。それから、1776年のアメリカ独立宣言まで、ニューヨークはイギリス領として統治されます。

 そのころのマンハッタンには、イギリス人とオランダ人の他に、フランス、ドイツ、スウェーデン、ユダヤ系、アンゴラからの奴隷などが、すでに多様な人種社会を形成していたと言われています。その理由のひとつは、もともとオランダ商人たちの毛皮貿易の拠点であり、多様な人々が集う場所であったからでしょう。

 1825年に、ハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が完成すると、商取引の中心地となり、アメリカの商業・経済の発展と共に、ニューヨークも発展を続けていきます。

 1914年に、南部から北部への「アフリカ系アメリカ人の大移動」(The Great Migration)が始まると、ニューヨークはその主要な行き先となり、1916年までにニューヨークに住むアフリカ系移住者は、北アメリカで最多となります。

 移住者の多くはマンハッタンのハーレムに住み、1920年代には「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる文化活動、1940年代にはジャズのビバップが花開きます。

 その後も、NYパンク、ノー・ウェーブ、ヒップホップなどの文化が栄えたのは、多種多様な人々が暮らし、アンダーグラウンドな土壌も培ってきた、ニューヨークならではと言えるでしょう。

シカゴ

 続いて、1950年代にはシカゴ・ブルースを生み、1970年代にはハウスを生み、多数のUSインディーロックの重要レーベルも居を構える、シカゴの歴史を振り返ります。

 もともとポタワトミ族という先住民族が暮らしていたこの場所は、1795年にアメリカ領となりますが、1833年の時点でも人口はわずか200人程度。しかし、1848年にイリノイ・ミシガン運河、1852年にイリノイ・セントラル鉄道が完成すると、内陸交通の中心地として急速に発展していきます。

 当時シカゴの主要産業は農業。農業州の中核都市として、世界最大の穀物取引市場となりますが、20世紀初頭に、北部の工業化にともない、南部から多くのアフリカ系住民が流入すると、シカゴの多民族的性格が強まっていきます。また、禁酒法時代(1920-1933年)には、酒の密造・密売をとりしきる暗黒街のボス、アル・カポネが暗躍したことでも有名。

 雑多な民族が混在する自由都市であることが、シカゴの特徴であり、魅力であると言えるでしょう。

ルイジアナ購入

 次に、ルイジアナ購入について、取り上げます。1776年にアメリカが独立を宣言したとき、東海岸沿いに13の州ができあがっていました。その後、アメリカは西へ向かって、領土を拡大していくことになります。

 イギリスが東海岸沿いを中心に植民地を建設していった一方で、フランスはまず現在のカナダのケベックに拠点を築き、そこからミシシッピ川流域の広大な地域を領有します。フランス領ルイジアナです。

 1803年、フランスはイギリスとの戦費に充てるため、ルイジアナをアメリカに1500万ドルで売却します。このルイジアナ購入によって、アメリカの領土は一気に当時の2倍となりました。そして、ジャズの発祥地とされるニューオーリンズも、アメリカ領土になります。

西斬運動

 先にも述べたとおり、イギリスがアメリカ大陸に植民地建設を始めたのは、東海岸からです。それから、アメリカ合衆国独立後も、西へ西へと領土を拡大していくことになります。

 これを「西漸運動」と呼び、1803年のルイジアナ購入、メキシコから独立したテキサス共和国の1845年の併合など、西に領土を拡大。そして、1848年の米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)の勝利によるカリフォルニアの獲得によって、遂に西海岸に達します。

ロサンゼルス

 ロサンゼルスは、1781年にスペインによって建設されました。その後、1821年にスペインからメキシコ帝国が独立し、ロサンゼルスもメキシコ帝国の一部となります。そして、1846年から1848年の米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)におけるアメリカの勝利により、ロサンゼルスを含めたカリフォルニアはアメリカ領となります。

 1850年の時点での人口は1600人程度。しかし油田発見と、それに伴う石油化学工業や航空産業の発展などにより、1900年を迎える頃には人口は10万人を超えます。

 さらに、ハリウッドに代表されるエンターテイメント産業も発達。当時の映画撮影には高い光度が必要であり、雨が少なく、晴れ渡ることの多いロサンゼルスの気候が、撮影に最適であったためです。

 現在のUSインディー・シーンにおいては、エピタフなど多数のレーベルが居を構え、特にパンク系の強い都市になっています。

南北戦争と奴隷解放

 最後に、アメリカ史上非常に重要であり、アメリカ音楽の発展にも大きな影響を与えた、南北戦争を取り上げたいと思います。

 アメリカ国内では「The Civil War」と呼ばれるこの戦争にたいして、日本語では「南北戦争」という言葉があてられています。この「南北戦争」という呼称が示すとおり、アメリカ南部の諸州とアメリカ北部の諸州の間の戦争です。

 原因となったのは、南部と北部の経済体制の違いでした。南部では1607年に現在のヴァージニア州への植民が始まり、温暖な気候と肥沃な大地を利用した、タバコ栽培が始まります。

 大規模な農園は拡張を続け、ヨーロッパからの移民だけでは働く人手が足りず、植民開始から12年後の1619年には、早くも奴隷の使用が始まった記録があります。やがて主力商品が綿花に取って代わり、南部は奴隷制を前提とした農業を、主要産業として発展していくのです。同時に、アフリカからの奴隷の輸入も続きます。

 それに対して北部は、農業に適さない寒い気候だったこともあり、工業を中心に発展していきます。そのため、奴隷制が確立することはなく、南部に比較すると、北部に暮らすアフリカ系住民の比率は、圧倒的に低いものでした。しかし、北部でも19世紀に入ると工業が急速に発展し、流動的な労働力を欲するようになります。

 こうして、奴隷制を敷く農業中心の南部、奴隷制を持たない工業中心の北部の対立が深まり、1861年についに戦争が始まるのです。もともとは奴隷解放を、一義的な目的とした戦争ではありませんでしたが、戦争が長期化するなかで、世論やアフリカ系住民を味方につけるため、北部側は奴隷解放宣言を発表します。

 1865年に戦争は終結し、南部の奴隷は解放されます。(実際には、解放されても働き口は限られていて、結局は以前と変わらぬ状況のままだという人も多数いたのですが…)

 そして、この奴隷解放によって、南部のアフリカ系住民の移動や活動が、以前よりも自由になり、ブルースをはじめとした彼ら固有の音楽の発展・拡散を促すことになります。

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2, アメリカ合衆国の成り立ち


 こちらのページでは、USインディーロックを育む土壌となった、アメリカ合衆国の成り立ちを、簡単にご紹介したいと思います。当サイトは、USインディーロックの紹介をしながら、アメリカの歴史まで学べる、という素晴らしいサイトです(笑)

大航海時代と新大陸発見 (-1492年)

 まずは、アメリカ大陸に、ヨーロッパ人が植民してくる前の話から始めましょう。コロンブスが「新大陸」こと、アメリカ大陸を「発見」したのは1492年、のちのアメリカ合衆国成立につながる、イギリスから北米への植民が始まったのが1607年です。

 しかし、それよりも遥か昔から、北アメリカ大陸には多数の先住民族が暮らしていました。その数については諸説ありますが、ヨーロッパ人が本格的な植民(および侵略)を開始する前、北アメリカ大陸には500を超える部族が存在し、その総人口は300万から1000万人にのぼるのではないかと推測されています。

 では、ヨーロッパ人たちは、なぜ新大陸ことアメリカ大陸を目指したのでしょうか。端的に言ってしまえば、お金のためです。当時のヨーロッパでは、アジア原産の胡椒やシナモンなどの香辛料は、とても高価なものでした。しかし、交通の要所であるイスタンブールにはオスマン帝国が君臨し、ヨーロッパから東回りではアジアに向かうことができません。そのために、西回りの航路を開拓する必要があったのです。

 また、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の記述から、アジアの東には黄金の国ジパングがあると、幻想的なイメージと共に信じられていました。

 そんなわけで、コロンブスしかり、実際に航海に出る船乗りたちは一攫千金を狙い、彼らをスポンサーとして支援する国家は富国強兵を狙い、大航海時代と呼ばれる時代が始まったのでした。そして、1492年のコロンブスによる「新大陸発見」へと繋がります。(実際には、高度な文明を持った先住民が多数暮らす大陸であり、「新大陸」でも「発見」でもないのですが…)

植民開始 (1492年-1620年)

 コロンブスの新大陸発見以降、当時のヨーロッパの列強各国が、次々と南北アメリカ大陸およびカリブ海に進出し、各地で植民地の建設が始まります。当サイトは、USインディーロックの紹介サイトですから、北アメリカに絞って話を進めます。

 のちにアメリカ合衆国として独立することになる、13州の植民地を作ったのはイギリスですが、それ以外の国も北米に進出し、期間の長さと規模の大きさに差はあれど、それぞれ植民地を建設していました。現在のアメリカ合衆国における、地域ごとの文化の差異を理解する上でも重要なので、各国がどのように北米に進出してきたか、いくつかの主要な国について簡単にまとめます。

スペイン

 南米やメキシコへの進出が目立つスペインですが、北アメリカにもかなり早くから進出しています。16世紀前半にはメキシコを征服し、メキシコより北の地域へも進出を始めます。まず1565年、フロリダ半島にサン・アグスティン(現在のフロリダ州セントオーガスティン)を建設します。

 さらに、1609年には現在のニューメキシコ州にサンタフェを、1710年にテキサスにサンアントニオ、1776年にカリフォルニアにサンフランシスコ、1781年に同じくカリフォルニアにロサンゼルスを、次々と建設します。見ての通り、すべて現在のアメリカ合衆国内にある都市です。

フランス

 イギリスにとって、北アメリカにおける、植民地獲得の最大のライバルと言えるのがフランスです。イギリスは1607年に、現在のヴァージニア州に本格的な植民を始めますが、フランスも1608年にケベック(現在カナダのケベック州)を建設し、そこを拠点にセントローレンス川流域、五大湖方面へと進出を続けます。

 さらに、ミシシッピ川流域にも進出し、そのあたり一帯をルイジアナと名づけ、その河口にラ・ヌーヴェル-オルレアン(現在のルイジアナ州ニューオーリンズ)を建設します。ちなみに当時の「ルイジアナ」は、現在のルイジアナ州だけではなく、ミシシッピ川流域の土地を含んだ、広大な地域を指します。

オランダ

 1609年からハドソン川流域へ探検活動を始め、1614年にフォート・ナッソー(現在のニューヨーク州オルバニー)を建設します。そして、1626年頃にはハドソン川の河口に位置するマンハッタン島に、ニューアムステルダムを建設。もちろん、ここは後にイギリス領となり、ニューヨークと改称される場所です。

イギリス

 では最後に、後のアメリカ合衆国の建国へとつながる、イギリスの植民活動を確認しましょう。取り上げるべき場所が多く、現在の都市ごとによる文化的差異にも直結してくるので、南部と北部にわけて、ご説明します。

ヴァージニアおよび南部

 先にも述べたとおり、イギリスが最初の恒久的な植民地「ジェームズタウン」を、現在のヴァージニア州内に建設したのは、1607年のことです。イギリスからヴァージニアに最初に渡った人々の目的は、基本的には一攫千金でした。そのため、家族単位ではなく、黄金を夢見た男性たちだけで海を渡っています。

 しかし、ヴァージニアには黄金郷など存在せず、植民初期の生活はかなり悲惨なものでした。そんななか、黄金と同じぐらい利益になることが始まります。タバコの栽培です。タバコはコロンブスが最初に持ち帰り、当時のヨーロッパではとても高価な嗜好品でした。そのタバコが、温暖なヴァージニアでは、豊富にとれることがわかったのです。

 こうして、大規模なタバコ農場の経営が始まります。しかし、タバコ栽培が軌道に乗り、多くの利益をあげるようになると、今度は農場を拡大するための労働力が不足します。本国イギリスから、アメリカへの移住を勧誘しますが、それでも全然足りない。

 やがて、安価な労働力として、アフリカの人々を輸入するようになります。1607年の植民開始から、僅か12年後の1619年には、早くも最初の奴隷制度が始まったという記録があります。このアフリカの人々が、やがてブルース、ジャズ、ゴスペル、ロックンロール、ヒップホップ、といった多くのアメリカ音楽を生むことになるわけですが、それはまだ先の話です。

ニューイングランドおよび北部

 続いて、北部に目を移しましょう。ヴァージニアに一攫千金を夢見て渡った人々とは、全く別種のグループが、1620年に現在のマサチューセッツ州に渡り、プリマスに植民地を建設します。彼らは「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人々です。

 彼らの目的は、ヴァージニアに渡った人々とは、180度と言っていいほど異なっていました。彼らは、キリスト教のなかでピューリタン(日本語では清教徒)と呼ばれるグループに属する人々で、イングランド国教会の改革を目指していましたが、イギリス本国では迫害され、自分たちの理想の宗教を実現するための場所を作るために、アメリカへ渡ってきたのでした。そのため、最初から家族単位での移住が多かったのです。

 こうして、南部のヴァージニアとは異なった雰囲気を持つ植民地が、北部には発展していくことになります。また、ヴァージニアよりも遥かに寒いマサチューセッツでは、タバコの栽培はもちろん、農作物の栽培も非常に困難で、試行錯誤しながら厳しい生活を送っていくことになります。

植民地の発展と独立 (1620年-1783年)

 アメリカ史を勉強するサイトではありませんので、このあたりは本当にすっ飛ばしていきたいと思います。(早く音楽の話題に入りたい…)

 重要なのは、地域によって異なるモチベーション、異なる価値観、異なる出自を持つ人々が、それぞれ自分たちの理想を実現するために植民地を建設し、各地に文化の異なる個性的な都市ができあがっていった、ということです。また、南部にアフリカ系住民が多い理由も、先ほどのヴァージニア植民地の成り立ちの紹介で、ご理解いただけたと思います。地域や都市によって、同じ国とは思えないほどに、文化や人種構成が異なるのがアメリカです。

 先ほどはヴァージニアとマサチューセッツのみ取り上げましたが、「独立13州」と言われるとおり、1776年に独立宣言を発表するまでには、東海岸に13州の植民地が成立していました。ヴァージニアとマサチューセッツも含め、イギリス本国から許可を受けた者がアメリカに渡航し、植民地を建設する、というかたちで発展していきます。

 発展を続けるアメリカ植民地に対して、本国イギリスは高い税金をかけて、利益を確保しようとします。それに反発を強めたアメリカに住む人々が、イギリスに対し独立戦争を起こし、見事に独立を勝ち取るわけです。そして、アメリカ合衆国の誕生は、同時に「アメリカ人」を誕生させます。

 基本的にすべての国民が移民であるという、特異な国家アメリカ。独立後はさらに発展と膨張(および侵略)を続け、移民の数も増大します。この広大な土地に、多種多様な移民が集う状況が、アメリカ人およびアメリカ文化を作り上げていくことになるわけです。

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1, アメリカの特性


アメリカの特性

 アメリカ合衆国の具体的な歴史に入る前に、まずはアメリカの特徴、特に日本と異なっている点について、両者を比較しながら、検討していきたいと思います。

 ここで取り上げるのは以下の3点。歴史の短さ、広大な国土、そしてそこに暮らす多様な人々についてです。さらに人々の精神性を示すキーワードとして「フロンティア精神」についても取り上げたいと思います。

短い歴史

 最初に歴史の短さについて、日本の歴史と並行させながら、ざっとアメリカの歴史をおさらいします。

 コロンブスが、新大陸ことアメリカ大陸を「発見」したのは1492年。日本では応仁の乱が始まったのが1467年。1492年は室町時代の終盤にさしかかる頃です。

 イギリス人が、最初の恒久的な植民地「ジェームズタウン」を建設したのは1607年。場所は現在のヴァージニア州です。続いて、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々が、現在のマサチューセッツ州に植民したのが1620年です。日本では、関ヶ原の戦いが1600年、江戸幕府が開かれたのが1603年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだのが1615年です。つまり、江戸時代が始まった時点では、現在のアメリカ合衆国につながる植民地は、まだ建設されていなかったということです。

 その後、植民・移民が加速度的に増加し、各地に都市が誕生し、アメリカ合衆国が国家として独立するのは、1783年(独立宣言は1776年)のことです。日本では江戸時代後期にあたる頃です。

 独立後もアメリカは発展と膨張を続け、20世紀以降は世界の超大国として君臨しています。つまり最初の植民から400年、国家成立から200年も経たないうちに、世界有数の大国になったということ。この短い期間で、いわば駆け足で人工的に作られた国が、アメリカ合衆国です。これは日本と比較しても、また世界のなかで見ても、非常に特異な国であると言えるでしょう。

広大な国土

 アメリカの国土の広さというのも、アメリカ文化を考える上で非常に重要です。アメリカの国土は日本の約25倍。しかし、人口はおよそ2倍。アメリカは日本よりも遥かに人口密度が低く、広大な土地に、都市と人々が散らばっているということです。

 成り立ちも文化も異なる個性的な都市が、アメリカには点在しています。そして、広大な土地によって、人々の移動が制限されるため、各都市はそれぞれの文化を育むことになります。

多様な人々

 前述したとおり、アメリカ合衆国は、移民によって作られた国です。最初はイギリスをはじめ、当時のヨーロッパの列強国が、それぞれ植民地を建設していきました。その後、南部では大規模な農場経営のために、アフリカの人々が奴隷として連れてこられ、同時にヨーロッパからの移民も増え続きます。もちろん、移民がやってくる遥か昔から、アメリカ大陸には先住民が暮らしていました。

 アメリカが国家として安定してくると、さらに移民が増加します。それまではイギリス系、フランス系、スペイン系、ドイツ系など、西ヨーロッパの人々が多数を占めていました。しかし、19世紀末以降になると、東欧や南欧、さらに日本や中国などアジアからの移民も増加します。

 こうして、文化も歴史的背景も異なる人々が、ひとつの国で同じ「アメリカ人」として生活していきます。人種の多様さが「メルティング・ポット」や「サラダ・ボウル」に例えられるぐらい、「多様性」がアメリカの特異な点であるのは、間違いありません。島国である日本とは、大きく異なると言っていいでしょう。

フロンティア精神

 最後に、アメリカ人が持つメンタリティの特徴として「フロンティア精神」という概念をご紹介します。

 前述したとおり、アメリカ合衆国は移民によって建国された国です。イギリスが最初に入植したのは、ヴァージニアやマサチューセッツなど、ヨーロッパから近い東海岸。それから、西に向かって開拓・膨張を続けていきます。

 この開拓の最前線を「フロンティア」と呼び、自分の力で新しい道を切り開いていく精神、やがてこれが「フロンティア精神」と呼ばれるようになります。1848年にアメリカの領土は、西海岸のカリフォルニアに達し、北米大陸においてのフロンティアは消滅します。

 しかし、1960年に当時のジョン・F・ケネディ大統領が、偏見や貧困などアメリカが抱える社会問題を「ニューフロンティア」という言葉であらわすなど、現在に到るまで「フロンティア」および「フロンティア精神」は、アメリカにおいて重要な概念となっています。

 1970年代後半から、全米各地にインディペンデント・レーベルが起こり、そのあと一斉に花開いていくUSインディーロックの文化。そこには、確実に「フロンティア精神」が関係しているはずだと思います。

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