目次
・イントロダクション
・MTVの問題点
・LAメタル
・グランジの誕生
・サブ・ポップ
・グランジ・ブームの到来
・レーベル紹介
・ディスク・ガイド
イントロダクション
1980年代。メインストリームでは、1981年に開局したMTVが全盛を迎え、メジャー・レーベルはますます巨大化。
メジャー・レーベルと契約し、ビッグ・ヒットを飛ばすロック・バンドも誕生します。音楽はテクニカルで洗練され、視覚的にも華やか。巨大なスタジアムでコンサートをおこなうメジャー・バンドの一部は、アリーナ・ロック(Arena rock)、産業ロック(Corporate rock)と呼ばれるようになります。
いずれも、60年代のロックが持っていたカウンター・カルチャーとしての魅力が薄れ、商業化していくロックに対する、嘲笑的なニュアンスを含む言葉です。
一方で、70年代後半から、インディペンデント・レーベルやカレッジ・ラジオが温床となり、メジャーとは一線を画した音楽性を持つインディーズ・シーンが、全米各地で形成。
商業化とエンターテインメント化の行きすぎたメジャーの音楽よりも、インディーズ的な音楽を好む層が、若者を中心に着実に増加していきます。
そして、1990年代に入るとグランジ・ブームが勃発。着火点となったのは、それまでは文化の中心地ではなかった、西海岸のはずれの都市・シアトルのインディー・シーン。
シアトル拠点のインディー・レーベル、サブ・ポップからデビューしたニルヴァーナ(Nirvana)は、1991年リリースの2ndアルバム『Nevermind』でメジャーへ進出し、現在までに米国内だけで1000万枚を超える、驚異的なセールスを記録。
ニルヴァーナ以外にも、多くのバンドがメジャー・レーベルと契約し、それまで地下で育まれてきたインディーズ的な音楽が、一気に地上のメインストリームへ浮上します。
このような現象が起こった要因のひとつは、それまでインディーロックを聴いてこなかった層にも、メジャー的音楽に対する不満が、潜在的に存在したこと。
このページでは、80年代に全盛を極めたMTV、そしてロックのメインストリームとなったLAメタルの問題点を指摘し、その後でカウンターとして、グランジおよびオルタナティヴ・ロックが浮上する過程をご紹介します。
MTVの問題点
前述のとおり、1981年に放送を開始し、80年代を通して音楽産業の中心となったMTV。もちろん、売れているから悪い、金を稼いでいるから悪い、というわけではありません。
それでは、MTVの何が問題なのか。端的に言えば、音楽よりも視覚性が重視されていることです。つまり、華やかな映像で圧倒し、音楽はBGMに過ぎない。音楽の良し悪しよりも、映像も含めたエンターテインメント性が重視されているということ。
もちろん、映像と共に音楽自体も優れている、マイケル・ジャクソンのような人物もいたわけですが、テレビを通して魅力を伝えるためには、視覚的に分かりやすいものが好まれます。
そのため、音楽よりも映像を売り物にする、音楽のクオリティよりもルックスを重視するシステムが、出来上がっていったのです。退屈ならチャンネルを変えられてしまう、テレビというメディアの特徴も、この流れに拍車をかけたのでしょう。
ルックスの悪い地味なバンドや、反抗的な歌詞を持ったパンク・バンドなどは、メジャー・レーベルと契約してMTVの放送に乗ることはなく、即効性のある分かりやすいルックスやパフォーマンスを持ったバンドがメジャーに進出し、ビッグヒットを飛ばすことになります。
LAメタル
そんなMTV全盛の時代において、ロックのメインストリームとなったのがLAメタル。
「LAメタル」という用語自体は、日本でのみ流通する独自の呼称ですが、80年代にロサンゼルスを拠点にするロック・バンドが、多数メジャー・デビューし、活躍したのは事実です。
LAメタルに括られるバンドに共通するのは、派手な髪型や、華やかな衣装。テクニカルな音楽性と、ゴージャスなサウンド。
彼らはまさに、MTVの申し子と呼ぶべきクオリティを備えていました。というより、MTVに合わせて、このようなロックが発展していったと捉えるべきでしょう。
即効性を求められるテレビというメディアを、最大限に利用するため、できる限り髪を伸ばし、できる限り髪を逆立て、できる限り派手な衣装を着て…といった具合に、ルックスはどんどん浮世離れし、演出はエスカレートしていきました。
さらに音楽面においても、「LAメタル」という呼称のとおり、ハードロックやヘヴィメタルが下地にしながら、分かりやすい速弾きやギターリフ、音圧の高いサウンド・プロダクションなど、やはり即効性のあるアレンジに傾いていきます。
そして、肝心のミュージック・ビデオ。バンドは派手な衣装を着こみ、ゴージャスな美女をはべらせ、「セックス、ドラッグ、ロックンロール!」を具現化したようなビデオが、数多くあります。
一見すると、既存の価値観へのカウンターとして機能する、ロックの特徴を多分に含んでいるようにも見えます。しかし、実際は既存の価値観への反抗に基づくのではなく、ただ過激さを追い求めたもの。
60年代から70年代にかけてのカウンター・カルチャーとしてのロックとは異なり、いわばロックの過激さを、商品としてパッケージ化したものに過ぎないとも言えるでしょう。
こうして、華麗なルックスと、過激なイメージ、ハードロックをポップに寄せた音楽性を持ったバンドが、セールス的には80年代ロックのメインストリームとなります。
グランジの誕生
こうして形成されていった、メジャー的なロック。80年代をとおして、メジャー・レーベルが配給するロックは、音楽的に新しいものは乏しく、画一化されていきます。
前述したように、まずはMTVを筆頭としたメディアで耳目を集めるため、重要視されたのは分かりやすいパフォーマンス。そこには、前衛的な音楽は必要とされず、70年代までのロックを焼き直した、保守的なロックの方が好まれました。
ただ、実際に大衆が好んでいたというよりも、メジャー・レーベル側が音楽の先進性よりも、華やかなエンターテインメント性の方を、より重要視していたということです。
そのため、LAメタルとは異質の過激さを持ったハードコア・パンクや、あまりにもアヴァンギャルドなノー・ウェーヴなどが、メジャーでメガヒットを生むことはありません。
同時に、ニューヨークやロサンゼルスなど大都市ではない、スカウトの目の届かない地方で活動するバンドにも、メジャーへの道はほぼ閉ざされていました。
しかし、彼らは自らレーベルを起こし、MTVとは対照的なカレッジ・ラジオ局とも連携。1980年代末には、全米各地に個性的なインディー・シーンが生まれていました。
グランジ・ブームの着火点となった、ワシントン州シアトルもそのひとつ。アメリカ西海岸の北端に位置するシアトル。現在のワシントン州が、ワシントン準州としてアメリカ領土となったのは1853年。州として認められたのは1889年です。
歴史も浅く、グランジで脚光を浴びるまでは、シアトルが文化の中心地として注目されることは、まずありませんでした。(ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)は同地の出身ですが、イギリスに渡り本格的な音楽活動をしています。)
この街でも、1980年代をとおして、多くのインディー・バンドが生まれ、やがて「グランジ」と呼ばれるジャンルが誕生します。グランジ(Grunge)とは、「薄汚い」という意味の形容詞「grungy」が、名詞化したもの。まさに、MTVやLAメタルに代表されるメジャー・シーンへの、カウンターとなる名称です。
グランジの特徴は、シンプルに激しく歪んだギター・サウンドに、内省的な歌詞。ファッションも、薄汚れたTシャツやジーンズに、ボサボサの髪。まさにグランジー(薄汚れた)なジャンルです。
整ったパワフルなサウンド・プロダクションに、まばゆい衣装、スプレーで逆立てた髪型のLAメタルとは、対極にあると言えます。
サブ・ポップ
シアトルのインディー・シーン、およびにグランジ・ブームを牽引する原動力となったのは、同地に設立されたインディペンデント・レーベル、サブ・ポップ(Sub Pop)です。
サブ・ポップの始まりは1980年。ワシントン州オリンピアにある、エバーグリーン州立大学(The Evergreen State College)の学生だったブルース・パヴィット(Bruce Pavitt)が、インディーロックの情報を扱うファンジンの発行を始めます。
そのファンジンの名前が、サブタレニアン・ポップ(Subterranean Pop)。のちにサブ・ポップと改称され、発行を続けます。同誌の売りは、インディーズ・バンドの音源を収録した、コンピレーション・カセットを付属していたこと。
1983年には、オリンピアからシアトルへ移転。1986年に、コンピレーション・アルバム『Sub Pop 100』をリリース。この作品がきっかけとなり、レーベルとしての活動を開始。
ちなみに同作のカタログ・ナンバーは「SP 10」。同作以前にリリースされた、ファンジン付属のカセットテープが、1番から9番までということになっています。
1987年に、ジョナサン・ポーンマン(Jonathan Poneman)が運営に参加。1988年4月には事務所を構え、パヴィットとポーンマンのコンビにより、レーベルが本格的に活動を始めます。
前述の『Sub Pop 100』に続き、1987年にリリースされたのは、シアトルで結成されたバンド、グリーン・リヴァー(Green River)のEP『Dry As A Bone』。
同バンドは1988年に解散しますが、メンバーは二手に分かれ、パール・ジャム(Pearl Jam)とマッドハニー(Mudhoney)を結成。
パール・ジャムがメジャーに進出する一方で、マッドハニーはサプ・ポップに残留。サブ・ポップは、その後もニルヴァーナやサウンド・ガーデン(Soundgarden)など、地元ワシントン州のバンドを中心に、リリースを重ねていきます。(この3バンドも、やがてメジャーに移籍するのですが…)
そして、80年代後半から90年代前半にかけてのグランジ・ブームを、牽引することになります。
後述するニルヴァーナのインパクトも大きいのですが、サプ・ポップがブームを作り上げることができた理由は、他にもあります。
まず、カセット付きのファンジンからスタートしたのも示唆的ですが、当初からキュレーター的なセンスを持っていたこと。バンドのファンではなく、「このレーベルなら信頼できる」というレーベルのファンを生み出すことになりました。
もうひとつは、イギリスの『Melody Maker』誌の記者をシアトルに招待し、記事を書かせたこと。シアトルという、それまではアメリカ国内でも、音楽の話題で取り上げられることのない地方都市が、海外メディアに注目されるきっかけとなりました。
以上、いくつかの理由とタイミングが重なり、サブ・ポップはアメリカを代表するインディペンデント・レーベルへと、成長していきます。
グランジ・ブームの到来
さて、先述したように80年代は、巨大な資本が投入されたMTVや産業ロックが、メインストリームを支配する時代でした。
しかし、90年代に入ると、それまで地下の音楽だったグランジが、地上のメインストリームに浮上。革命あるいはパラダイム・シフトと呼ぶべき、シーンの変化が生じます。
その中心となったのが、シアトルのインディーズ・シーン。そして、グランジ革命の象徴として扱われるのがニルヴァーナです。
シアトルがグランジ・ブームのきっかけを作ったのは事実ですし、ニルヴァーナがメジャー・デビューし驚異的なセールスを記録したのも事実。
しかし、いきなりシアトルおよびニルヴァーナが価値観をひっくり返した、というわけではなく、80年代からパラダイム・シフトに繋がる動きがいくつもあり、結果として90年代前半にシアトルをきっかけにシーンが一変した、ということです。
グランジ・ブームのきっかけとなった要素を2つ挙げるなら、まずは80年代を通してメジャー・レーベルが売り出すロック・バンドの質が画一化し、多くの人が潜在的にウンザリしていたこと。そして、もうひとつには、全米各地でメジャーに迎合しない個性的なインディーズ・シーンが生まれていたことです。
ニルヴァーナが1991年に『Nevermind』でメジャー・デビューする前から、ニルヴァーナと同じくシアトルを拠点にしていたサウンドガーデン(Soundgarden)が1989年にメジャー・デビューしたり、アングラの帝王ソニック・ユースが1990年にアルバム『Goo』でメジャーへ移籍したり、という動きが既にありました。
ちょうど、大衆がメジャーの音楽に飽き飽きしていたタイミング、メジャー・レーベルが注目するほどに各地でインディーシーンが盛り上がるタイミング。その2つが90年代の前半にカッチリと組み合ったわけです。
さて、そんなわけで80年代の後半から、それまでインディーズ・レーベルに属していたバンドが、少しずつメジャーへ進出。
サブ・ポップに所属していたニルヴァーナもメジャーへ移籍し、前述のとおり2ndアルバム『Nevermind』は空前の大ヒット。その後は、青田買いに近いかたちも含め、続々とグランジにカテゴライズされるバンドが、メジャー・デビューを果たします。
こうして、グランジは一気に地上に浮上。音楽シーンのメインストリームとなります。同時に、それまでメジャーの売れ線だったバンドの一部は、前時代的でダサい、というレッテルを貼られることに。
ニルヴァーナと対極の存在に位置付けられ、前時代のロックの代表のように扱われることになったのが、ガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N’ Roses)です。両者は、旧世代と新世代の対立の象徴となります。
ニルヴァーナのカート・コバーンが、ガンズ・アンド・ローゼズのサポート・アクトの要請を断るなど、否定的な態度をとり続けたことが、その要因。
ロサンゼルスで結成され、LAメタルの文脈で語られることもあるガンズ・アンド・ローゼズ。確かに、汚らしい格好で時に陰鬱なテーマの曲を歌うグランジとは、相容れない部分もあるのですが、ハード・ロックを基調にした音楽性には、共通点も認められます。
グランジおよび一部のインディー・ロックが浮上できたのは、それまでのメジャー的な音楽と全く異質というわけでなく、共通する部分も少なからずあったためでしょう。
つまり、それまでメジャー的なロックを聴いていた層にも受け入れられやすく、なおかつ彼らがメジャーの音楽には足りないと感じていた要素を、グランジ勢は備えていたために、ニルヴァーナをきっかけとして、グランジ革命とでも呼ぶべきパラダイム・シフトが起きたのです。
視点を変えれば、それまでLAメタルを聴いていた層が、グランジへと寝返ったとも言えます。そのため、例えばニルヴァーナの『Nevermind』を購入した人々の多くは、それまでインディー・ロック的な音楽を聴いてこなかった層ということ。
このように、リスナーが好む音楽性と、バンドが志向する音楽性の間には、当初から乖離があったために、グランジ・ブームも短命に終わったのです。
グランジ・ブーム終焉の象徴も、やはりニルヴァーナ。ギターとボーカルを務めるカート・コバーンが、1994年に自ら命を絶ち、グランジ・ブームも終息へ向かいます。
これもカートの死がグランジ・ブームを終息させたと言うよりも、ちょうどグランジ・ブーム衰退のタイミングと、彼の死が重なったと見るべきでしょう。
グランジの急激なブームのために、上記で説明したようにリスナーとバンドの間に価値観の相違が生まれ、ニルヴァーナはその被害者の筆頭だった、とも言えると思います。
レーベル紹介
サブ・ポップ以外に、グランジ・ブームを盛り上げたインディー・レーベルを、ふたつ紹介しておきましょう。
まず一つ目は、サブ・ポップと並んでシアトル・シーンを牽引したC/Z。1985年に設立された同レーベルは、1986年にリリース第1弾として、コンピレーション・アルバム『Deep Six』を発売。
同作には、グリーン・リヴァー、メルヴィンズ(Melvins)、スキン・ヤード(Skin Yard)、サウンドガーデンなど、当時のシアトルを代表するバンドの楽曲が収録。
その後も、7イヤー・ビッチ(7 Year Bitch)、ビルト・トゥ・スピル(Built To Spill)、シルクワーム(Silkworm)など、シアトルおよびグランジの枠だけにとどまらず、リリースを重ねました。
もうひとつは、同じくシアトルに設立されたポップラマ(PopLlama)。当時のシアトルを代表するプロデューサーである、コンラッド・ウノ(Conrad Uno)によって、1984年に設立されました。
シアトルにあるレコーディング・スタジオ、エッグ・スタジオ(Egg Studios)のオーナーでもあるコンラッド・ウノは、ポップラマ以外の作品も含め、プロデューサーとしても多くの作品に携わっています。
ポップラマからは、ファストバックス(Fastbacks)、ガール・トラブル(Girl Trouble)、ザ・ポウジーズ(The Posies)、ザ・ヤング・フレッシュ・フェローズ(The Young Fresh Fellows)などの作品がリリースされました。
ディスク・ガイド
このページで取り上げたバンドのディスクガイドです。
Nirvana “Bleach” (1989 Sub Pop)
ニルヴァーナ 『ブリーチ』 (1989年 サブ・ポップ)
シアトルのインディーズ・レーベル、サブ・ポップからリリースされた、ニルヴァーナの記念すべき1stアルバム。メジャー・デビュー後の2枚のアルバムに比べると、アングラ臭が充満したサウンドになっています。
そのため、敬遠されることも多いのではないかと思いますが、静と動のコントラスト、当時のシアトルのライブハウスの空気がそのまま閉じ込められたかのような空気感など、グランジの名盤と言って良いと思います。個人的には、メジャーでの2枚と同じぐらい、本作を推します。
Nirvana “Nevermind” (1991 DGC)
ニルヴァーナ 『ネヴァーマインド』 (1991年 DGC)
ゲフィン・レコード(Geffen Records)傘下のレーベル、DGCよりリリースされた、ニルヴァーナのメジャー・デビュー作。プロデューサーを務めるのは、ウィスコンシン州で結成されたロック・バンド、ガービッジ(Garbage)のメンバーとしても知られる、ブッチ・ヴィグ(Butch Vig)。
サブ・ポップからリリースされた前作『ブリーチ』と比較すると、音圧が高くパワフルで、良くも悪くもメジャー的なサウンド・プロダクション。しかし、それまでのメジャーには無かった陰鬱さも同居し、ロックのダイナミズムと作家性が、高い次元で両立された1作です。
Nirvana “In Utero” (1993 DGC)
ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』 (1993年 DGC)
前作『Nevermind』と同じくDGCからリリースされた、ニルヴァーナの3rdアルバムであり、最後のスタジオ・アルバム。プロデューサーおよびサウンド・エンジニアを務めるのは、スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)。
アルビニ特有の生々しいサウンド・プロダクションが光る名作。1曲目の「Serve The Servants」から、唸りをあげるノイジーなギター、地を這うようなベース、立体的なドラムが、その場の空気感まで含め鳴り響きます。
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