11, パンク・ブーム以後の時代 (1978年〜)


目次
イントロダクション
パンクからの派生ジャンル
ノー・ウェーブ
ZEレコード
ハードコア・パンク
ブラック・フラッグ
SST
マイナー・スレット
ディスコード
R.E.M.とカレッジ・ロック
その他の重要レーベル
ディスク・ガイド

イントロダクション

 ピストルズを着火点に広がった、世界的なパンク旋風。その後、パンク・ムーヴメント自体は下火になるものの、パンクから派生するかたちで様々なジャンルが生まれます。それと比例するように、全米各地にインディー・シーンおよびインディペンデント・レーベルが誕生。

 このページでは、パンク以後に生まれた代表的なジャンルとレーベルを挙げながら、USインディー・ロックの発展と拡大を追っていきます。このあたりから、地域ごとの個性が際立ち、USインディーらしい奥深さが生まれていきますよ!

パンクからの派生ジャンル

 「パンク」と一口に言っても、もちろんバンドごとに音楽性は異なりますし、ロンドン・パンクとニューヨーク・パンクでも、大きく毛色が変わります。

 また、例えば同じピストルズに影響を受けたバンドでも、彼らの音楽性や思想をコピーしようとする者もいれば、さらに過激に発展させようとする者、さらにはカウンターで全く逆のことをやろうとする者さえいます。

 では、70年代後半のパンク旋風が過ぎ去ったあと、その影響がどのように引き継がれ、どのようなジャンルが生まれたのか。いくつかの代表的なジャンルと地域、そしてレーベルを参照しながら、ご紹介します。

 具体的には、ニューヨークのノー・ウェーブ、各地で生まれたハードコア・パンク、そしてカレッジ・ロックの文化。この3つを軸に話を進めます。

ノー・ウェーヴ

 まずはニューヨーク・パンクを育み、ロンドンと共にパンクの出発点のひとつとなった、ニューヨークに注目してみましょう。シンプルな8ビートのロックを下敷きに、反体制的なメッセージを発するロンドン・パンクと比較して、ニューヨーク・パンクは当初から実験性とアート性を重視した音楽を繰り広げていました。

 古くから貿易の中心地であり、マンハッタン周辺の狭いエリアに、多様な民族が暮らしてきたニューヨーク。パンクの季節が過ぎ去り、1970年代後半からは、ポストパンクの動きが加速します。

 一般的にポストパンクと言うと、シンプルなロックを基調としていた、パンクの音楽的構造へのカウンターで、シンセサイザーの音色を用いる、複雑なビートを持ち込むなどして、非ロックへと向かう音楽を指します。この流れは、ピストルズとパブリック・イメージ・リミテッド(Public Image Ltd)を中心にした、イギリスを例にとっても分かりやすいでしょう。

 ニューヨーク・パンクに分類されるバンドの一部は、前述したポストパンクの要素を、当初から持ち合わせていました。例を挙げるなら、トーキング・ヘッズにおける多彩なビートの導入や、テレヴィジョンにおける歌詞の文学性と音楽の実験性などです。

 また、政治に対して反抗的なアティチュードが特徴のロンドン・パンクと比較すると、ニューヨーク・パンクは音楽的・芸術的な面で、従来の方法論に反抗する、という特徴を持っていました。

 パンク旋風が過ぎ去ったあと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからニューヨーク・パンクへと繋がる方向性を、さらに過激に押し進めたのが、ノー・ウェーブ(No Wave)と呼ばれるムーヴメントです。

 このムーヴメントを代表する1枚が、1978年にリリースされた『No New York』。トーキング・ヘッズの2ndアルバム『More Songs About Buildings And Food』のプロデュースのため、ニューヨークに滞在していたブライアン・イーノが、当地でノー・ウェーブのバンドのライヴを目撃。

 そこで目にした4バンドに声をかけ、彼がプロデューサーとしてまとめたコンピレーション・アルバムが、この『No New York』です。収録されたのは、コントーションズ(Contortions)、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス(Teenage Jesus And The Jerks)、マーズ(Mars)、DNAの4組。いずれも当時のノー・ウェーブを代表するグループでした。

 商業化したロックへのアンチテーゼでもあった彼らの音楽は、フリージャズや実験音楽からの影響も色濃く、極めて実験的。そのため、商業的に成功することはなく、ノー・ウェーブのムーヴメントも短命に終わります。

 しかし、彼らのバラまいたオルタナティヴの種は、ソニック・ユースを筆頭に後続のバンドへ引き継がれ、ニューヨークのアングラ、インディー・シーンは、やがて大きく花開きます。

ZEレコード

 ノー・ウェーブが盛り上がる中で、メジャー的ではない同ムーヴメントの音楽をリリースする、インディペンデント・レーベルが誕生します。それが、イラク系イギリス人のマイケル・ジルカと、フランス人のマイケル・エステバンによって、1978年に設立されたZEレコード(ZE Records)

 『No New York』にも参加していたマーズ、DNAのメンバーだったアート・リンゼイ、コントーションズを率いたジェームス・チャンスの作品などをリリースします。

 ちなみに『No New York』は、メジャーのアイランド・レコード傘下のアンティルス(Antilles)というレーベルからのリリース。これは、ブライアン・イーノがアイランド・レコードに、コンピレーションの企画を持ち込み、実現したようです。

ハードコア・パンク

 次にご紹介するのは、ハードコア・パンク。パンク・ロックの持つ攻撃性を引き継ぎ、先鋭化させたジャンルです。

 ピストルズやラモーンズなど、パンクに分類されるバンドの多くは、シンプルなロックンロールを下敷きにした音楽性を持っていました。また、特にロンドン・パンクのバンドには、思想的に反体制であったり、歌詞が攻撃的なバンドが多く見受けられます。

 そのような攻撃性を抽出し、先鋭化させていったジャンルが「ハードコア・パンク」です。そのため、このジャンルの特徴というと、パンクよりもテンポが高速であること、パンク以上に激しくシャウトし、ギターも歪ませること、などが挙げられます。

 それでは、ここからアメリカにおけるハードコアの第一世代で、後進のバンドにも多大な影響を与えたバンドを二つご紹介していきます。まず、ひとつ目のバンドは、1976年にカリフォルニア州ハモサビーチで結成されたブラック・フラッグ(Black Flag)。そして、もうひとつは、1980年にワシントンD.C.で結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 彼らはそれぞれ、自らのレーベルを立ち上げ、地元シーンの活性化にも貢献。また、バンドで自らレーベルを立ち上げる、モデル・ケースともなりました。

 では、これから上記2つのバンドが結成され、各地のシーンが活性化していくプロセスを、ご紹介します。

ブラック・フラッグ

 まずは、ブラック・フラッグ(Black Flag)と、SSTレコードについて。

 ロンドンとニューヨークのパンク・バンドに感化され、各地でパンク・バンドが結成されます。南カリフォルニアで結成された、ブラック・フラッグもそのひとつ。

 ブラッグ・フラッグの中心メンバーであり、のちにSSTレコードを設立する、グレッグ・ギン(Greg Ginn)は、1954年にアリゾナ州ツーソンで生まれました。

 その後、一家はカリフォルニア州ベーカーズフィールド郊外の農村へ引っ越し、ギンは幼少期を同地で過ごします。兄弟姉妹は、彼を含め5人。父親は学校の教師をしていましたが、収入は少なく、生活は決して楽ではなかったようです。

 1962年、ギンが8歳のときに、一家は同じカリフォルニア州内のハモサビーチへ引っ越し。いわゆる、ロサンゼルス大都市圏(Greater Los Angeles Area)の中に位置する、白人中産階級が暮らすエリアです。

 同地は1950年代には、ビートニク(Beatnik)と呼ばれる、先進的な文学グループのメッカでしたが、ギンが引っ越す頃には、サーファー達に愛される場所へと、様変わり。やがてギンは、同地の物質主義的な風土を軽蔑するようになり、詩作やアマチュア無線を好む、物静かな少年となります。

 12歳になると、ラジオの部品を通信販売するビジネスを立ち上げ、その会社をソリッド・ステイト・チューナーズ(Solid State Tuners)と名付けます。略して、SST。のちのSSTレコードの由来にもなる名称です。

 幼少期からティーンエイジャーを通して、音楽には興味を示さなかったギン。しかし、そんな彼にも、音楽へ目覚めるきっかけが訪れます。1972年、彼が18歳のときに、地元ラジオ局から賞品としてもらった、デイヴィッド・アクルス(David Ackles)の『American Gothic』。

 デイヴィッド・アクルスは、1937年生まれのシンガーソングライターで、商業的には成功しなかったものの、ルーツ・ミュージックを含んだ多様なジャンルを参照したサウンドは、評論家やミュージシャンから、高い評価を得ていました。『American Gothic』は、1972年にリリースされた、彼の代表作。

 商業的な3分間のポップ・ソングには、興味が持てなかったギンですが、本作で音楽に目覚め、アコースティック・ギターを手にします。やがて、エレキ・ギターを手に取り、作曲も始めます。

 1970年代の中頃、ハモサビーチで人気を博していたのは、ジェネシス(Genesis)を筆頭に、イギリスの華やかなバンドたち。しかし、ギンが好んだのはテクニカルで端正な70年代のバンドよりも、プリミティヴな60年代のバンドでした。

 周囲で人気のバンドに興味が持てないギンに、ここで再び転機が訪れます。ヴィレッジ・ヴォイス(The Village Voice)誌を読んでいるときに見かけた、パンク・ロックに関する記事。そこで紹介されていたのは、マクシズ・カンザス・シティ(Max’s Kansas City)やGBGBなど、当時パンク・バンドが多数出演していた、ニューヨークのライブ・ハウスです。

 音を聴く前から、パンク・ロックこそ自分が探していたものだと確信し、パンクをはじめ、ギンはさらに多くの音楽を聴くようになります。そして1976年、ギンが22歳のとき、遂にブラック・フラッグが結成されます。

 「ブラック・フラッグ」というバンド名は、ギンの弟であり、画家として同バンドのロゴをデザインした、レイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)の提案によるもの。「白旗が降参を意味するなら、黒旗はアナーキーをあらわす」というペティボンの考えに基づいています。

 1978年に、ギンはブラック・フラッグの音源をリリースするため、自らのレーベルSSTを設立。翌1979年には、SST最初のリリース作品として、ブラック・フラッグのEP『Nervous Breakdown』が発売されています。

 さて、ハードコア・パンクを代表するバンドのひとつと目されるブラック・フラッグ。彼らの音楽は、ラモーンズ的なパンクのシンプリシティに、無調性なギターソロを合わせ、現代音楽的な実験性を持ち込んだところが特徴でした。

 また、ヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)の絞り出すようにかすれたボーカル、全体の荒々しくざらついたサウンド・プロダクションも、ピストルズやラモーンズに、音質面で攻撃性をプラスしていると言えるでしょう。

 アルバムを追うごとに、リズムの面でも実験性を増していきます。当初は前のめりに疾走するリズムが主軸だったものの、やがてテンポの切り替えを頻繁におこなう曲、スローテンポで音響やアンサンブルを前景化させる曲などが増加。

 シンプルなパンクに、フリージャズや現代音楽の要素を持ち込み、当初のハードコア・パンクから、徐々にハードコアを越えたポスト・ハードコアへと、音楽性を変化させていきました。
 

SST

 元々はブラッグ・フラッグの音源をリリースするために設立された、SSTレコード。やがて、地元カリフォルニア州のパンク・バンドを中心にリリースを増やし、レーベルとしての活動が、徐々に軌道に乗っていきます。

 まず、ブラッグ・フラッグに続いて、同レーベルから作品をリリースしたのは、ロサンゼルスのサンペドロ出身のミニットメン(Minutemen)。同じくロサンゼルス出身のサッカリン・トラスト(Saccharine Trust)と、オーヴァーキルL.A.(Overkill L.A.)が、それに続きます。

 1982年には、初のカリフォルニア州外のバンドとなる、アリゾナ州フェニックス出身のミート・パペッツ(Meat Puppets)と契約。以降は、州外のバンドとの契約も増え、ミネスタ出身のハスカー・ドゥ(Hüsker Dü)、ニューヨーク拠点のソニック・ユース(Sonic Youth)、マサチューセッツ出身のダイナソーJr.(Dinosaur Jr.)、ワシントン州出身のスクリーミング・トゥリーズ(Screaming Trees)などの作品をリリース。SSTは80年代のUSインディー・ロックを牽引するレーベルのひとつへ成長します。

 SSTがこのような発展を遂げたのは、彼らがアメリカ全土をツアーで回りながら、各地のバンドやレーベルとの、横の繋がりを構築していったため。各地で非メジャー的なバンドと交流を結び、彼らのレコードをSSTからリリースし、メジャーとは一線を画する音楽を紹介するレーベルとして、一種のブランド的な人気を獲得していきます。

 また、ブラッグ・フラッグは結成当初、なかなかボーカリストが安定しませんでした。ヘンリー・ロリンズが加入するのは1981年。実はロリンズはカリフォルニア出身ではなく、東海岸のワシントンD.C.の出身です。

 ブラッグ・フラッグとロリンズが出会うきっかけとなったのも、前述の全米規模のツアー。ロリンズは、ステイト・オブ・アラート(State Of Alert)というバンドのボーカルを務めており、ワシントンD.C.では知られた存在でした。そのため、ロリンズの加入はブラッグ・フラッグの音楽性の発展のみならず、東海岸での知名度獲得にも貢献します。

 テレビや雑誌を利用した大量の広告と、全米規模の販売網を持つメジャー・レーベルとは違い、DIY精神に乗っとった、地道な草の根活動で、シーンを拡大したハードコア・パンク。そして、ブラッグ・フラッグおよびSSTに影響を受けたバンドが、また自らのレーベルを立ち上げ、USインディーは徐々に土壌を整えていくのです。

マイナー・スレット

 続いて西海岸から、東海岸のワシントンD.C.に、目を移しましょう。ここにも、ハードコアの伝説的なバンドが誕生します。イアン・マッケイ(Ian MacKaye)を中心に結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 ボーカルのイアン・マッケイと、ドラムのジェフ・ネルソン(Jeff Nelson)は、1979年に結成されたティーン・アイドルズ(The Teen Idles)でも活動を共にしていました。この、ティーン・アイドルズのEPをリリースするため、マッケイとネルソンによって設立されたレーベルが、ディスコード・レコード(Dischord Records)。

 しかし、同バンドは1980年に解散。マッケイとネルソンを含む一部のメンバーが、新たにマイナー・スレットを結成します。

 ワシントンD.C.は、言うまでもなくアメリカ合衆国の首都であり、多数の大使館や金融機関がオフィスを構える、国際的な政治の中心地です。しかし、人口は60万人ほど。ニューヨークやロサンゼルスと比較すれば少なく、またシカゴやニューオーリンズのように、個性的な文化を持っているわけでもありません。

 語弊を恐れずに言えば、ファッションの発信地でも、文化の中心地でもない、ワシントンD.C.。そんな地味な都市で、ハードコアの豊かなシーンが形成されたという事実が、逆説的にハードコアとインディーズ文化の力強さを、証明しているとも言えるでしょう。

 すなわち、大都市ではなく、個性的な文化や歴史のバックボーンが無くとも、情熱を持ったいくつかのバンドが集まれば、十分にシーンを形成し、やがて全米レベルで名をあげられるということです。

 それでは、同地で生まれたディスコードというレーベルが中心となり、やがて「DCハードコア」と呼ばれるまでにシーンが発展していくプロセスを、これからご紹介していきます。まずは、ディスコードの設立者の1人であり、マイナースレットのメンバーでもある、イアン・マッケイの話から始めましょう。

 イアン・マッケイは1962年、ワシントンD.C.で生まれました。父親は、ワシントン・ポスト紙の記者。有能なジャーナリストであり、マッケイは非常に知的で、オープンマインドな環境で、育てられたようです。

 14歳のとき、のちにブラッグ・フラッグに加入するヘンリー・ロリンズと、家が近所だったために知り合い、現在に到るまでの親友となります。

 当時、マッケイとロリンズが夢中になったのは、ハードロック系のギタリスト、テッド・ニュージェント(Ted Nugent)。音楽もさることながら、酒もタバコもドラッグもやらないという彼の態度に、感銘を受けます。

 当時のマッケイのアイドルは、テッド・ニュージェントの他に、クイーン(Queen)やレッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)など。ウッドストックの映像を何度も見返し、ミュージシャンになりたい、と思うようになります。しかし、自分が憧れるロック・バンドに比べて、自分に才能がないことは明らか。その夢を、早々に諦めていました。

 そんなマッケイ青年の人生を変えたのが、パンク・ロックとの出会いです。出会いのきっかけは、カレッジ・ラジオ。地元ワシントンD.C.の近郊・ジョージタウンにある、ジョージタウン大学のカレッジ・ラジオ局「WGTB」で、パンク・ロックを流していたのです。カレッジ・ラジオの文化に関しては、後述します。

 パンクと出会った、当時高校生のマッケイは、地元のパンク・バンドのライヴに、足を運ぶようになります。マッケイに特に衝撃を与えたのが、バッド・ブレインズ(Bad Brains)です。

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人の4人組で、元々はマインド・パワー(Mind power)という、ジャズ・ロックやフージョン系のバンドで活動していました。バッド・ブレインズの音楽は、スピード重視のハードコア・パンクを基調としながら、レゲエやメタル、ジャズ、ファンクの要素まで取り込んだ、唯一無二のもの。

 バッド・ブレインズの音楽は非常に高度なものでしたが、「音楽的には未熟でも良い」というパンク・ロックの精神に惹かれ、マッケイは自らもバンドを結成できると確信します。そうして、同じウィルソン高校(Woodrow Wilson High School)に通う友人のジェフ・ネルソンらと共に、ティーン・アイドルズを結成。1979年、マッケイが17歳のときでした。

 ティーン・アイドルズは、メンバー間の方向性の違いから1年ほどで解散しますが、マッケイとネルソンは新たなバンドを結成します。それが、マイナー・スレットです。また、ティーン・アイドルズ時代にレコーディングした音源をリリースするため、同時期にはディスコード・レコードも設立されています。

 マイナー・スレットも活動期間は短く、1980年から1983年までの4年弱。活動中にリリースした音源も、数枚のみ。しかし、そのスピーディーでタイトな音楽性で、ハードコアの伝説的なバンドとなります。

 また、音楽性と並んで、彼らの影響力の源泉となったのが、徹底したDIY精神と、ストレート・エッジ(Straight Edge)と呼ばれる思想です。

 ストレート・エッジとは、「セックス、ドラッグ、ロックンロール!」という言葉に集約される、快楽的なロックの価値観を否定し、酒もタバコもドラッグもやらない、禁欲的な思想やライフスタイルを指す言葉。マイナー・スレットに「Straight Edge」というタイトルの楽曲があり、イアン・マッケイが、最初の提唱者と言われています。

 音楽面と精神面の両面で、ストイックに自分たちの理想を示したマイナー・スレット。レーベル運営のシステムも含めて、後続のバンドに大きな影響を与えました。

ディスコード

 続いて、マイナー・スレットのメンバーである、イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが設立したレーベル、ディスコード・レコード(Dischord Records)に話を進めましょう。

 ディスコードが設立されたのは1980年。マイナー・スレットの前身バンドであるティーン・アイドルズの音源を、リリースするためでした。

 ティーン・アイドルズに続いて、2枚目のリリースとなったのは、ステイト・オブ・アラートの『No Policy』。マッケイの友人であり、のちにブラッグ・フラッグに加入する、ヘンリー・ロリンズが在籍していたバンドです。

 その後もワシントンD.C.周辺のハードコア・バンドを中心に、リリースを重ねていきます。80年代前半の主なバンドを挙げると、ガヴァメント・イシュー(Government Issue)、フェイス(The Faith)、スクリーム(Scream)など。

 もちろん、ティーン・アイドルズ解散後に、マッケイとネルソンが結成した、マイナー・スレットの一連の作品も、ディスコードからリリースされています。

 マイナー・スレットは1983年に解散し、マッケイは新たにフガジ(Fugazi)を結成。疾走感あふれる、タイトなハードコア・サウンドが持ち味だったマイナー・スレットとは変わって、より複雑なアンサンブルを志向するポスト・ハードコアへと、音楽性が発展していきます。

 フガジと呼応するように、80年代中盤以降はディスコードからリリースされるバンドも、より多様性と実験性を増していき、時代はハードコアから、ポスト・ハードコアへと移行。ディスコードは、この流れの中心のひとつとなり、シーンを牽引していきます。

 80年代中盤から90年代にかけて、フガジを筆頭に、ライツ・オブ・スプリング(Rites of Spring)、ネイション・オブ・ユリシーズ(Nation Of Ulysses)、ジョーボックス(Jawbox)、シャダー・トゥー・シンク(Shudder To Think)、ラングフィッシュ(Lungfish)など、多くのバンドを輩出。

 ハードコアからポスト・ハードコアへと繋がる、メジャーとは一線を画したブレない音楽性は、世界中にフォロワーを生み、USインディー・シーンの最重要レーベルのひとつと認識されるまでになります。

R.E.M.とカレッジ・ロック

 パンクからハードコア、そしてDIY精神に根ざしたレーベル設立の流れとは別の、もうひとつの文化をご紹介します。インディー・レーベルと共に、各地のシーン勃興に大きく貢献した、カレッジラジオ(college radio)の文化です。

 カレッジ・ラジオとは、その名のとおり大学のキャンパス内や、学園都市に開設される、学生向けの放送をおこなうFMラジオ局のこと。そのため、英語圏ではキャンパス・ラジオ(campus radio)とも呼ばれます。

 放送範囲が狭く、対象も学生および若者とハッキリしており、インディーズ・レーベルと同じく、メジャー的ではない個性的な音楽を流します。

 全米各地のカレッジ・ラジオ局を繋ぎ、独自の文化として発展させたのが、カレッジ・ミュージック・ジャーナル(College Media Journal)、通称CMJです。CMJは、1978年に創刊された、カレッジ・ラジオのチャートや情報を掲載する音楽誌。

 各地に点在するカレッジ・ラジオ局の放送曲を集計し、チャートとして発表。小さな地方都市で活動するバンドが、メジャー・デビューしなくとも、脚光を浴びる道が拓かれました。いわば、インターネットが無い時代に、インターネット上のコミュニティのように、情報を拡散するシステムとして機能した、とも言えるでしょう。

 1982年には、CMJニュー・ミュージック・レポート(CMJ New Music Report)と改称し、メジャーではMTVが全盛となるなか、メジャーとは別種の音楽を紹介するメディアとして、多大な影響力を持つようになります。また、カレッジ・ラジオでかかるロックが、「カレッジ・ロック」とも呼ばれるようになります。

 そして、このカレッジ・ラジオの文化の中から登場した代表的なバンドが、ジョージア州アセンズ出身のR.E.M.。1980年に、学生都市アセンズで結成されたR.E.M.は、カレッジ・ラジオでの人気を追い風に、全米規模の人気のバンドへと登りつめていきます。

 メジャー・レーベルA&M傘下のインディー部門(メジャー資本が入っているため、純粋なインディー・レーベルと呼ぶべきかは微妙)として設立された、I.R.S.からリリースの1stアルバム『Murmur』は、サイケデリックなギターロックとでも呼ぶべき音楽が展開され、いわゆるパンク・ロックとは全く異なる音楽。

 パンクへのカウンターとして機能する、ポストパンクやニューウェーヴの一種とも、言えなくもないですし、シーンの流れに関係なく、地方の一バンドでも良い音楽を作れば、ラジオをきっかけにブレイクできる証左とも言えます。

 ここで、パンクとは異なるもうひとつの流れとして、「ペイズリー・アンダーグラウンド」(Paisley Underground)をご紹介しておきましょう。

 ペイズリー・アンダーグラウンドとは、80年代にカリフォルニアを中心に起こった、60年代のジャングル・ポップやサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックをリヴァイヴァルするムーヴメントのこと。

 70年代の洗練されたロックではなく、よりプリミティヴな60年代のロックへ回帰するところは、既存のロックへのアンチテーゼでもあったパンク・ロックと、地続きであるとも言えるでしょう。

 このページでは全てお伝えしきれませんが、パンクやハードコア以外にも、多様なジャンルのバンドが、全米各地で生まれていくのもこの時期です。その土壌を用意したのが、各地のインディペンデント・レーベルであり、カレッジ・ラジオ局でした。

その他の重要レーベル

 この時期に設立・活躍した、その他の重要レーベルを、いくつかご紹介します。

 まずは、カリフォルニア州サンフランシスコ出身のパンク・バンド、デッド・ケネディーズ(Dead Kennedys)のジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)とイースト・ベイ・レイ(East Bay Ray)によって設立された、オルタナティヴ・テンタクルズ(Alternative Tentacles)

 1979年に設立された同レーベルは、パンクを基調としつつ、パンクの枠組みだけに収まらない、個性的なバンドの作品をリリース。D.O.A.やディックス(Dicks)、初期のバットホール・サーファーズ(Butthole Surfers)等のバンドが、作品を残しています。

 1978年にカリフォルニア州ロサンゼルスで設立されたスラッシュ(Slash)は、ジャームス(Germs)やエックス(X)、ザ・ブラスターズ(The Blasters)などの作品をリリース。ロサンゼルスのパンク・シーンを盛り上げました。

 リプレイスメンツ(The Replacements)やソウル・アサイラム(Soul Asylum)が所属していた、ミネソタ州ミネアポリスのツイン・トーン(Twin/Tone)、インダストリアルに特化したワックス・トラックス!(Wax Trax!)など、地域やジャンルに根ざしたレーベルも、生まれ始めます。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンド、および関連バンドのディスクガイドです。

Various Artists “No New York” (1978 Antilles)

コンピレーション・アルバム 『ノー・ニューヨーク』 (1978年 アンティルス)

 ブライアン・イーノがプロデューサーを務めた、ノー・ウェーヴを代表する4バンドの音源を収録したコンピレーション。ノー・ウェーヴは短命かつ限定的なムーヴメントだったので、これ1枚を聴けば、概要はつかめるでしょう。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・パンクの実験性を、さらに先鋭化したサウンドが聴けます。残念ながら、今のところデジタル配信は無いようです。


James Chance & The Contortions “Buy” (1979 ZE Records)

ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ 『バイ』 (1979年 ZEレコード)

 『No New York』にも参加していた、コントーションズの1stアルバム。バンドを率いるジェームス・チャンスは、フリージャズの分野でも活動する、サックス奏者。

 「ロックとジャズの融合」と書くと、あまりにも単純化が過ぎますが、トライバルなビートと、アヴァンギャルドなフレーズが合わさり、ポストパンクをフリージャズの方向に先鋭化させたようなサウンドを作り上げています。

 


Lydia Lunch “Queen Of Siam” (1980 ZE Records)

リディア・ランチ 『クイーン・オブ・シャム』 (1980年 ZEレコード)

 『No New York』に参加した、ティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス(Teenage Jesus & The Jerks)のメンバーだったリディア・ランチの初ソロ・アルバム。

 ピアノやホーンが用いられ、サウンドは華やかですが、ハーモニーとメロディーには、実験性が色濃く出ています。

 


Black Flag “Damaged” (1981 SST)

ブラック・フラッグ 『ダメージド』 (1981年 SST)

 ボーカルにヘンリー・ロリンズを迎え制作された、ブラック・フラッグの1stアルバム。

 前のめりに疾走するリズムと、ざらついたサウンド、絞り出すようなボーカルと、ハードコア的な要素を多分に含みながら、3曲目「Six Pack」のように、各楽器が有機的に組み合うアンサンブルも共存しています。

 


Minutemen “The Punch Line” (1981 SST)

ミニットメン 『ザ・パンチ・ライン』 (1981年 SST)

 カリフォルニア州ロサンゼルス・サンペドロ出身のバンドの1stアルバム。ジャンルとしてはハードコア・パンクに括られるのでしょうが、リズムはファンクのようにシャッフルしたり、前につんのめるようだったりと、なかなか複雑。

 ルーツ・ミュージックからの影響も感じる、奥の深い音楽を作り上げています。初期SSTを代表するバンドのひとつ。

 


Meat Puppets “Meat Puppets” (1982 SST)

ミート・パペッツ 『ミート・パペッツ』 (1982年 SST)

 アリゾナ州フェニックス出身のバンド、ミート・パペッツの1stアルバム。

 前のめりに疾走していくハードコア・パンクを基調とした音楽性ですが、ギターのねじれたフレーズや、バンド全体で揺らぐようなアンサンブルからは、のちのオルタナティヴ・ロックの要素も感じられます。


Bad Brains “Bad Brains” (1982 ROIR)

バッド・ブレインズ 『バッド・ブレインズ』 (1982年 ロアー)

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人のハードコア・パンク・バンド、バッド・ブレインズの1stアルバム。ニューヨークのROIRというレーベルからのリリース。

 彼らの音楽性は、しばしばハードコアとレゲエやファンクなど、複数のジャンルが融合していると説明されます。本作も、高速なリズムに乗って、直線的に走るだけではない、スウィング感のあるアンサンブルが展開。3rdアルバム『I Against I』は、SSTからリリースされています。

 


The Teen Idles “Minor Disturbance” (1980 Dischord)

ティーン・アイドルズ 『マイナー・ディスターバンス』 (1980年 ディスコード)

 ディスコードの記念すべき、カタログ・ナンバー1番。イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが、高校時代に組んでいたバンドのEP作品。

 8曲入りで、収録時間はわずか9分20秒。スピード重視の疾走感に溢れたハードコア・パンクが、展開されています。

 


Minor Threat “Out Of Step” (1983 Dischord)

マイナー・スレット 『アウト・オブ・ステップ』 (1983年 ディスコード)

 マイナー・スレットの1stアルバムであり、唯一のオリジナル・アルバム。ハードコア・パンクを代表するバンドらしく、タイトで疾走感にあふれた演奏が繰り広げられます。

 しかし、ただ直線的に速いだけではなく、アンサンブルには凝ったところもあり、ポスト・ハードコアへと繋がる要素も垣間見える1作。

 


R.E.M. “Murmur” (1983 I.R.S.)

R.E.M. 『マーマー』 (1983年 I.R.S.)

 カレッジ・ロックの申し子、R.E.M.のデビュー・アルバム。ギターを主軸に据えながら、単にギターロックとは呼びがたい、実験的なフレーズや、もやのかかったようなサイケデリックな音像が共存。

 その音楽性は、ポストパンクのようでもあり、ギターポップのようでもあり、ほのかに60年代の香りも漂います。メンバーの音楽オタクっぷりが垣間見え、当時の知的な大学生に支持されたのも、納得のアルバム。

 


関連バンド作品の個別レビュー

Bad Brains – バッド・ブレインズ
I Against I (SST 1986)

Bluetip – ブルーチップ
Dischord No. 101 (Dischord 1996)
Join Us (Dischord 1998)
Polymer (Dischord 2000)

Dead Kennedys – デッド・ケネディーズ
Fresh Fruit For Rotting Vegetables (Alternative Tentacles, Cherry Red 1980)

Descendents – ディセンデンツ
Milo Goes To College (New Alliance 1982, SST 1987)
I Don’t Want To Grow Up (New Alliance 1985, SST 1987)

Dinosaur Jr. – ダイナソーJr.
You’re Living All Over Me (SST 1987)
Bug (SST 1988)

Fugazi – フガジ
In On The Kill Taker (Dischord 1993)
Red Medicine (Dischord 1995)
The Argument (Dischord 2001)

Germs – ジャームス
(GI) (Slash 1979)

Hüsker Dü – ハスカー・ドゥ
New Day Rising (SST 1985)

James Chance & The Contortions – ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ
Buy (ZE Records 1979)

James White & The Blacks – ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス
Off White (ZE Records 1979)

Meat Puppets – ミート・パペッツ
Meat Puppets (SST 1982)
Meat Puppets II (SST 1984)
Up On The Sun (SST 1985)
Mirage (SST 1987)
Huevos (SST 1987)
Monsters (SST 1989)

Minor Threat – マイナー・スレット
Out Of Step (Dischord 1983)
First Two Seven Inches (Dischord 1984)

Nation Of Ulysses – ネイション・オブ・ユリシーズ
13-Point Program To Destroy America (Dischord 1991)
Plays Pretty For Baby (Dischord 1992)

Rites Of Spring – ライツ・オブ・スプリング
Rites Of Spring (Dischord 1985)

Sonic Youth – ソニック・ユース
EVOL (SST 1986)

X – エックス
Los Angeles (Slash 1980)
Wild Gift (Slash 1981)

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