「歴史」カテゴリーアーカイブ

8, ロサンゼルスの音楽史


 ニューヨークと並ぶアメリカの大都市、ロサンゼルスの歴史と音楽シーンの変遷を、簡単に振り返ります。

ロサンゼルスの歴史

 16世紀前半にメキシコを征服したスペインは、その後も領土を北に伸ばし、1781年に現在のロサンゼルスがある場所に小さな村落を建設します。

 その後、1848年にカリフォルニアがアメリカ領となり、1850年にはロサンゼルスに市制が敷かれますが、当時の人口はわずかに1600人程度。しかし、1900年を迎える頃には10万人、1960年にはおよそ248万人へと増加するなど、急速な発展を遂げます。

 まず、1848年にサクラメント近くで金が発見され、ゴールドラッシュが起き、一攫千金を夢見る人々がカリフォルニアに殺到します。「カリフォルニア・ゴールドラッシュ」と呼ばれるこの現象は、1855年頃には終息。

 1865年には、南北戦争が終結。カリフォルニアはもともと奴隷制を持たない「自由州」でしたが、南北戦争終結によって「奴隷州」に住む奴隷が解放されると、多くの移住者が押し寄せます。

 1865年は、サンフランシスコとサンディエゴを鉄道で結ぶため、サザン・パシフィック鉄道が設立された年でもあります。(ロサンゼルスは、サンフランシスコとサンディエゴの間にあります。) この鉄道建設には、ゴールドラッシュに伴いカリフォルニアに移住してきた、中国系移民が多く従事します。

 19世紀末になると、日本からの移民も増加。東海岸よりもアジアから近いため、その後はアジア系移民も増加します。また、もともとメキシコ領だったこともあり、古くからヒスパニック系の住民も多く、近年もメキシコからの移住者が多数います。

 ロサンゼルスの爆発的な人口の増加は、いくつかの産業の発展が主な理由です。前述したとおり、19世紀中ごろのゴールドラッシュにより、多数の人が殺到します。殺到した採掘者のビタミン源として、1840年代からオレンジの栽培がカリフォルニア全域で開始。柑橘類をはじめとした農業が、ロサンゼルスの主要産業となります。

 19世紀末には油田発見による石油化学工業が発展、さらに航空機産業も発達。20世紀以降は、ハリウッドに代表されるエンターテイメントも主要産業となります。それまではニューヨークとシカゴが映画産業の中心地でした。当時のフィルムは感度の問題で、高い光度が必要。そのため、東海岸の都市よりも、温暖な地中海性気候を持ち、太陽が輝くロサンゼルスは、撮影に最適だったのです。

 このように、夢を持った移住者が多く集まり、人種構成も多様、そして魅力的な温暖な気候を持っているのが、ロサンゼルスの特徴と言えるでしょう。

ロサンゼルスの音楽シーン

 では、次にロサンゼルスの音楽シーンの流れを確認してみましょう。

 前述したように20世紀以降、ロサンゼルスのハリウッドは映画産業の中心地となっていきます。そして、1942年に西海岸初のメジャー・レーベルであるキャピトル・レコード(Capitol Records)が、この地に設立されます。映画産業が急速に発展した、ハリウッドという土地の可能性に着目したのです。

 1946年には、映画会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が、映画のサウンドトラックをリリースする目的でMGMレコードを設立。のちにロックやポップスを扱うレーベルとなります。

 1958年には、同じく映画会社のワーナー・ブラザースが、ワーナー・ブラザース・レコードを設立。このようにロサンゼルスでは、映画業界とも密接に関係したかたちで、音楽産業が発展していきます。

 また、ジャズの世界では、1940年代から「ウエストコースト・ジャズ」と呼ばれるムーヴメントが起こります。

 1960年代前半には、ディック・デイルやビーチ・ボーイズらの登場によって、サーフ・ミュージックが南カリフォルニアを中心に大流行。サーフ・ミュージックとは、簡単に説明するならば、リヴァーヴやトレモロ・ピッキングによって波の音を再現した、サーフィンに合う軽快なロックです。

 サーフィンは、ウクレレやスティール・ギターと共に、20世紀初頭にハワイから西海岸に伝わったと言われています。サーフィンを音楽で表現しようというサーフ・ミュージックは、まさにカリフォルニアおよびロサンゼルスらしい音楽であると言えるでしょう。

 1960年代中盤からは、ブルースを基盤にしながら独特の世界観を作り上げたドアーズ(The Doors)、フォークやカントリーを基調にサイケデリックなサウンドを響かせたバーズ(The Byrds)など、その後のUSインディーロックにも繋がる、ルーツ・ミュージックをオルタナティヴな感覚でアップデートするバンドが登場。

 1970年代に入ると、イーグルス(The Eagles)やTOTOなど、より作り込まれた明快なサウンドを持ったバンドが台頭し、ビッグ・ヒットを飛ばします。

インディー・シーンの形成

 ロサンゼルスの華やかな音楽シーンへのカウンターのように、1970年代後半から、ブラック・フラッグやバッド・レリジョンなどのパンク・バンドが台頭。1976年にブラック・フラッグのグレッグ・ギンによってSSTレコード、1980年にバッド・レリジョンのブレット・ガーヴィッツによってエピタフ(Epitaph)が設立され、その後のインディー・シーンを牽引します。

 1993年設立のハードコアを得意とするハイドラ・ヘッド(Hydra Head)、1998年設立のドゥームメタルやストーナーに特化したサザンロード(Southern Lord)、1999年にエピタフの姉妹レーベルとして設立されたアンタイ(ANTI-)などなど、現在に到るまでロサンゼルスにはパンクやヘヴィ・ロックを中心に、多くのレーベルが誕生し、豊かなインディー・シーンが形成されています。

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7, ニューヨークの音楽史


 このページでは、アメリカを代表する国際都市であり、音楽の中心地でもあるニューヨークの音楽の歴史を、簡潔に振り返りたいと思います。

ニューヨークの歴史

 ここまで順番にお読みいただいた方には、繰り返しになる部分もありますが、まずはニューヨーク(特にマンハッタン)の歴史をざっと振り返りましょう。

 ヨーロッパ人が移住してくる前、この地域にはレナペ族(デラウェア族)が暮らしていました。この地に、最初に植民地を建設したのはオランダ。

 マンハッタン島はニューアムステルダムと名付けられ、毛皮貿易の中心地となります。やがて、イギリスがこの地を支配し「ニューヨーク」と改称。現在に至るまで、アメリカを代表する都市のひとつであり続けます。
 
 ニューヨークが国際都市として発展した理由は、もともと貿易所として始まり多種多少な人々が集まる場所だった、その後もヨーロッパからの移民の玄関口として機能していたこと、などが挙げられます。

 1892年から1954年までの間は、アッパー・ニューヨーク湾内にあるエリス島に移民局が置かれ、ヨーロッパからの移民は、まずこの地を踏むことになります。

 20世紀に入り「アフリカ系アメリカ人の大移動」が始まると、マンハッタン北部にあるハーレムへ多数のアフリカ系住民が移住。さらなる人種の多様化を生みます。

 多種多様な人々が集い、経済的にもアメリカの中心であり続ける国際都市ニューヨーク。その多様性と都会性が、メインストリームだけでなく、アンダーグラウンドな文化も育むことになったのでしょう。

ニューヨークの音楽シーン

 ビートルズを筆頭に、イギリスのバンドが猛威を振るう1960年代、ニューヨークでは1964年にヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)が結成されます。

 アヴァンギャルドかつ内省的な音楽性を持つ彼らは、商業的な成功はおさめられなかったものの、後続のバンドに多大な影響を与え、1970年代のニューヨーク・パンクやノー・ウェーブに繋がっていきます。

 アンダーグラウンドな文化も育まれていく一方で、19世紀末からは「ティン・パン・アレー」と呼ばれる音楽関係の会社が集まる一角が生まれ、その後のポップ・ミュージックを牽引するなど、ニューヨークはオーバーグラウンドでもアメリカ音楽界の中心的な役割を果たします。

 また、アフリカ系住民の多いハーレムでは、ジャズのビバップやヒップホップも発展します。

 1970年代に入ると、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラモーンズ、パティ・スミスなどが活躍し、彼らはニューヨーク・パンクと呼ばれるようになります。彼らの間に、必ずしも音楽的な共通項が見出せるわけではありませんが、音楽面へのこだわりが強く、広い意味で前衛的、メジャーへのカウンター的である、という点では共通していると言えるかもしれません。

 さらに1970年代後半に入ると、前衛的な音楽を志向するノー・ウェーブ(No Wave)と呼ばれるシーンが盛り上がります。このシーンの中心的なバンドは、DNA、マーズ(Mars)、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ(James Chance & The Contortions)など。1978年に設立されたZEレコード(ZE Records)は、ノー・ウェーブ系のバンドの作品を数多くリリースしました。

 1980年代に入ると、スワンズとソニック・ユースが実験性の高い音楽をロックバンドで鳴らし、ニューヨークのインディー・シーンを牽引します。

インディペンデント・レーベル

 1980年代後半以降になると、現在まで続く有名インディペンデント・レーベルが次々と生まれます。ニューヨークを代表する名門レーベルといえば、1989年に設立されたマタドール(Matador Records)です。ヨ・ラ・テンゴやスーパーチャンクの作品をリリースし、ニューヨークはおろかアメリカを代表するインディー・レーベルのひとつとなります。

 1990年には、スワンズのマイケル・ジラが実験的なロックを中心にリリースするレーベル、ヤング・ゴッド(Young God Records)を設立。2000年代以降では、アクロン/ファミリーやデヴェンドラ・バンハートなどの作品をリリースしています。

 1999年には、レ・サヴィ・ファヴ(Les Savy Fav)のベーシスト、シド・バトラーがフレンチキス(Frenchkiss Records)を設立。2001年には、LCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーがDFAを設立するなど、アーティスト自身によるレーベルの設立も目立ちます。

 また、全てのバンドがインディー・レーベル所属というわけではありませんが、2000年代以降はブルックリンと、マンハッタンのロウワー・イースト・サイドを中心に新たなシーンが形成。

 ストロークス、ヤー・ヤー・ヤーズ、ダーティー・プロジェクターズ、グリズリー・ベア、TV オン・ザ・レディオ、ヴァンパイア・ウィークエンドなど、ニューヨークらしく多彩なバンドが活躍しています。

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6, USインディーロックの誕生


 このページでは、USインディーロックがどのように生まれたのか、おおまかな流れを把握できるよう、ご紹介したいと思います。

産業ロックとMTV

 1970年代以降、アメリカの音楽産業は拡大を続けます。しかし、レコードの価格上昇、テープ・コピーの増加、アメリカ社会全体の不況などを原因に、1978年を境にレコード生産が、マイナス成長の時期に入ります。(なんだか、最近の音楽業界の話みたいですね…)

 そのため、メジャー・レーベルの縮小やリストラも増加。リスクを伴う若手の発掘ではなく、手堅く売上を狙える中堅やベテランのリリースに、重きを置くようになります。

 そんな状況下で、1981年にMTVの放送が開始されます。MTVは、ミュージック・ビデオを中心に、音楽番組を24時間流し続ける、音楽専門のケーブルテレビ・チャンネルです。

 当時のテレビの影響力は今以上に絶大で、1980年代には多数のビッグ・ヒット、スーパー・スターが誕生します。マイケル・ジャクソンもその一人。1982年に発売された彼のアルバム『スリラー』は、1984年末までにアメリカ国内だけで約2000万枚を売り上げます。

 前述したようにレコード業界の不況により、1970年代後半から、ある程度の売り上げが期待できる、中堅以上のバンドに力を入れていた各メジャー・レーベル。言い換えれば、冒険をしない保守的なリリースが増加していきました。

 しかし、商業的には各レーベルの思惑通り、1970年代後半から数々のヒットを飛ばします。さらに1980年代以降は、MTVの流れに乗った、華やかでスタイリッシュなバンドも増加。ポップでキャッチー、ロック的な自意識が薄く、レコード会社の言いなりのようにも見えるこれらのバンドは、「産業ロック」(corporate rock)とも呼ばれるようになります。

インディーズ文化の特徴

 1970年代後半の不況を乗り越え、MTVや巨大なスタジアム・コンサートに例証されるように、アメリカの音楽産業は巨大化していきます。しかし、それは商業性を徹底させることにもなり、メジャー・レーベルは売れる音楽、それも中途半端なヒットではなく、メガ・ヒットを狙ったマーケティングに徹します。

 そんななか、メジャー的ではない音楽を志向するバンドが、全米各地で生まれ始めます。彼らは、音楽性と人気の面でメジャーとは契約を結べない、あるいは最初からメジャーで売れることを一義的には考えず、各地にインディペンデント・レーベルが生まれ、インディー・シーンが形成されていきます。

 アメリカでは1950年代にも、エルヴィスをデビューさせたサン・レコード、ブルースやR&Bを扱うチェス・レコードなど、各地でインディペンデント・レーベルが活躍していました。当時のインディペンデント・レーベルも、音楽的にメジャーの網にかからないアーティストのリリースが中心でした。

 また、シカゴ・ブルースを扱うチェス・レコード、ニューオーリンズのアーティストの発掘に積極的だったインペリアル・レコード、南部のブラックミュージックを好むサン・レコードといった具合に、当時からインディペンデント・レーベルは、音楽性や地域性と密接に結びついていました。

 これは、地元の音楽を紹介するために設立されることが多く、小規模なためメジャー・レーベルよりも設立者の意思を反映しやすい、インディペンデント・レーベルの特徴であり利点です。また、バンド自身が自分たちの作品をリリースするために、自らレーベルを立ち上げることもしばしばあります。

各地のインディー・シーンの誕生

 こうして、1970年代の後半から1980年代にかけて、全米各地でインディー・シーンが形成され、個性的で魅力的な音楽が多数生まれます。

 各地のインディー・シーン形成に大きく貢献したのが、音楽好きな個人やグループが発行するファンジン(ファンが作る同人誌)と、アメリカでは大学キャンパス内に開設され、学生主体で運営されるカレッジ・ラジオ局です。

 どうしてもレーベルやバンドにスポットライトが当たりがちですが、このようにコミュニティ単位で発展したのが、アメリカのインディー・シーンの特徴です。

 それぞれの街で、それぞれの文化と人々に密着したシーンが生まれる。その多様性とダイナミズムが、USインディーズの大きな魅力のひとつです。

 なぜ、この地域ではパンクが流行ったのか、なぜこの街のこのレーベルはオルタナ・カントリーに強いのか、なぜこんな小さな街から多数の魅力的なバンドが生まれるのか…そんなことを考えただけでも、ワクワクしてきませんか?

 まだまだ書きたいことは尽きず、各都市のシーンの歴史や特徴については、ここでは書き切れないので、また別記事に書きたいと思います。お読みいただきありがとうございました!

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5, ロックの誕生と歴史


 このページでは「ロックンロール」と呼ばれる音楽が生まれ、やがて単に「ロック」という名称で定着していく歴史を、1950年代からざっと振り返りたいと思います。

ロックンロールの誕生

 ロックンロールは、黒人音楽であるリズム&ブルースと、白人音楽であるカントリー&ウェスタンが融合して誕生した、と一般的に説明されます。やや単純化が過ぎるとしても、大きな流れとしては、間違いではないはずです。重要なのは、いくつかの異なる音楽ジャンルが、融合して誕生したということ。

 ロックンロールという言葉が使われ始めたのは、1950年代初頭だと言われています。それから、1950年代中盤になると、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードなどがヒットを飛ばし、ロックンロールがジャンルとして認識され、定着していきます。

 また、ロックンロールのスターを発掘したのが、各地のインディペンデント・レーベルであったのも、注目すべき点です。前述した3名を例にとっても、エルヴィスはテネシー州メンフィスのサン・レコード、チャック・ベリーはイリノイ州シカゴのチェス・レコード、リトル・リチャードはカリフォルニア州ロサンゼルスのスペシャルティ・レコードから、それぞれデビューしています。

 当時のアメリカのレコード市場は、「六大メジャー」と呼ばれる6つのメジャー・レーベルが支配的な立場にいましたが、そこに風穴をあけるようにインディペンデント・レーベルが生まれ始めたのです。

 なぜこのような状況になったのか、それには多角的な理由が絡んでいます。まず「若者」という新しい購買層が生まれたこと、そしてメジャー・レーベルが粗野なロックンロールが売れるとは思わず、時代のニーズに対応できなかったこと、などが挙げられます。

 ロックンロール誕生以前、ティン・パン・アレー形式で製作されるポップスは、特定のリスナーを想定していませんでした。言い換えれば、家族で安心して聴ける、甘くて口当たりのいいポップスを量産していたということです。そのため、ティン・パン・アレーの楽曲には、ドラッグ、アルコール、政治、性的な話題などは、直接的なかたちでは表現されません。

 それに対してロックンロールは、それまでのタブーと思われる題材を歌い、大人も子供も安心して楽しめる楽曲ではなく、「若者」という特定のターゲットに訴える音楽を鳴らしていたということです。

 インディペンデント・レーベルが、メジャーレーベルの網にかからない音楽を拾い上げる、という構造は、その後のUSインディーズの構造と共通していると言っていいでしょう。

 1950年代中盤から、ロックンロールはアメリカを席巻します。しかし、1950年代後半になると、エルヴィスの徴兵、バディ・ホリーらの事故死、チャック・ベリーの逮捕などが重なり、ロックンロールは瞬く間に下火になっていきます。

ロックンロールからロックへ

 そんな時にアメリカを征服したのが、ビートルズを筆頭にしたイギリスのバンドです。エレキ・ギターのサウンドや、力強いビートといった、ロックンロールの特徴を下敷きに、彼らはさらに多くの音楽ジャンルを参照し、多彩でポップな音楽を作り上げていきます。多くのイギリス出身のバンドが、アメリカを席巻した現象は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれます。

 アメリカ国内でも、ジミ・ヘンドリックスやドアーズ、ジャニス・ジョプリンなど、それまでのロックンロールの範疇には収まらない音楽が次々と登場し、1960年代中頃から「ロックンロール」は、単に「ロック」と呼ばれるようになります。

 さて、このティン・パン・アレー形式のポップスから、ロックンロール、さらにロックへの流れで重要なのは、消費の対象が楽曲から人へと移ったことです。

 作曲、編曲、演奏まで徹底した分業制を敷き、工場のように楽曲を生産するティン・パン・アレー形式。商品となるのは、あくまで楽曲であり、歌手は分業制の一部でしかありません。

 もちろん、1940年代からフランク・シナトラのようなスターは存在しましたが、エルヴィス、ビートルズと若者にターゲットを絞ったロックは、若者たちの間でカリスマ的な人気を誇り、徐々に人々の関心が「楽曲」から「人」へと移動します。

 ロックの歌詞には、それまでのティン・パン・アレー式のポップスには表現されない、政治性や性的な話題などが盛り込まれ、アーティスト側の自意識もますます前景化されます。

 また、ビートルズがカバー曲からスタートし、それから自作曲に移行したことも象徴的ですが、1960年代以降のバンドは、自分たちで作詞作曲し、自分たちで演奏する自作自演のスタイルが主流となります。

 このあたりの「楽曲」から「人」への興味および消費対象の移行と、自作自演至上主義とも呼ぶべき思想は、現代の日本で「アイドル」と「バンド」が、あたかもジャンル名であるかのように機能していることにも、繋がってくる話題です。

 1960年代後期以降も、より激しいサウンドを持ったハード・ロックや、前衛性やクラシック的な壮大さを持つプログレッシヴ・ロックなど、イギリスからはロックの範囲を拡大する音楽が、多数生まれます。

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4, アメリカ音楽の歴史


 このページでは、アメリカ音楽の大まかな流れと歴史を、時間軸に沿いながらご紹介いたします。

 1783年にイギリスからの独立を果たしたアメリカ。しかし、当時はまだ政治的にも経済的にも不安定で、国家としての足固めの時期がしばらく続きます。

 19世紀に入り、国内の産業が発展し、人々の生活にも余裕が生まれると、徐々に文学や演劇、そして音楽文化が育ってきます。もちろん、それ以前にも宗教音楽や労働歌(ワーク・ソング)など、人々の生活に密着した音楽は存在していたでしょう。

 しかし、アメリカ固有の音楽が育ち始め、娯楽として音楽を楽しむ構造ができあがった、という点が重要です。当時はCDやテレビなどのメディアは存在しませんから、人々が音楽を楽しむ場所は、主に劇場ということになります。

ミンストレル・ショー

 そんななか、19世紀半ばに「ミンストレル・ショー」と呼ばれる舞台芸能が、アメリカ国内で大流行します。これは、顔を黒く塗った白人が、踊りや音楽を交えた寸劇をおこなう、というものです。ここでは深入りしませんが、差別的な要素を含んだエンターテインメントでした。

 ミンストレル・ショーで使用される音楽は、最初はヨーロッパのオペラなどを下敷きにしたものが多かったものの、徐々にオリジナルの作曲家も生まれ始めます。その1人が、「おおスザンナ」や「ケンタッキーの我が家」を作曲し、「アメリカ音楽の父」とも呼ばれるスティーブン・フォスターです。

 前述したとおり、差別を助長する面もあるミンストレル・ショーは、19世紀末までには人種風刺を含まない「ヴォードヴィル・ショー」に取って替わられます。ヴォードヴィル・ショーも、ミンストレル・ショーと同じく、踊りや手品、漫才、音楽などを披露する舞台芸能です。

シート・ミュージック

 少し話題を変えて、シート・ミュージックをご紹介したいと思います。「シート・ミュージック」という言葉自体は、手書きあるいはプリントされた楽譜を指す言葉です。

 ラジオやレコードが普及する前の19世紀のアメリカでは、このシート・ミュージックが音楽を流通させる手段でした。つまり、現在CDやダウンロードで音楽が流通しているように、当時の楽曲は印刷されたシート・ミュージックのかたちで流通し、購入した人はそれを自宅で演奏し、音楽を楽しんでいたのです。

 特にニューヨークでは、楽譜関連の会社が集まる一角が出現し、その場所は「ティン・パン・アレー」と呼ばれるようになります。ティン・パン・アレーについては、後述いたします。

ブルース

 ブルースは南北戦争が終結し、奴隷解放後の19世紀後半ごろに、アフリカ南部で起こった音楽形式と一般的に説明されます。その起源は、奴隷として西アフリカから連れてこられた人々が歌う、ワーク・ソングやフィールドホラーから発展したものと言われています。ワーク・ソングは、労働の際に呼吸を合わせるために歌われる歌、フィールドホラーは、労働の際の叫び声のようなものです。

 ブルースの特徴として、ブルー・ノートと呼ばれるフラットした音程、12小節AABの形式、日常の出来事や感情を表現した歌詞などが挙げられます。これらの音楽的特徴の一部は、ジャズやロックンロールへも影響を与えます。

 ブルースがポピュラリティを得るきっかけになったのは、1903年のW・C・ハンディによるブルースの「発見」です。ミシシッピ州を旅行中だった作曲家のW・C・ハンディは、タトワイラーの駅で偶然ブルースを演奏するひとりの黒人と遭遇します。ハンディは、このとき耳にした音楽をもとに作曲した曲を発表し「ブルースの父」と呼ばれるようになります。

 1920年代以降アメリカではレコード産業も発展し、1920年にブルース初のレコーディングと言われるメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が録音。その後、チャーリー・パットンやロバート・ジョンソンなどが発見され、ブルースのレコーディングが次々とおこなわれます。

 南部で起こったブルースは徐々に北上し、各地で独自のスタイルを作り上げながら発展していきます。シカゴでは、1950年代にエレキ・ギターなどを用い、ブルースが電化。1960年代には、ブルースの影響は、イギリスのローリング・ストーンズやクリーム等へ引き継がれていきます。

カントリー・ミュージック

 ブルースが、南部のアフリカ系住民から起こった音楽とされるのに対して、カントリー・ミュージックは、ヨーロッパの民謡がアメリカ南部で発展した音楽、と説明されます。特に、スコットランドやアイルランド民謡の影響が濃い、とも言われます。

 カントリー・ミュージックのレコーディングが始まったのは1920年代。当時は「ヒルビリー」「ウェスタン」などと呼ばれていました。1940年代には「カントリー・ミュージック」という呼称が定着し、ロックンロールが誕生する直前の1950年代初頭には、ハンク・ウィリアムズというスターも誕生します。

ティン・パン・アレー

 先ほど、シート・ミュージックのところで触れましたが、ティン・パン・アレーとはニューヨークの楽譜関連の会社が集まっていた一角を指す言葉です。この一角が形成され始めたのは1890年代、まだレコード普及前で、当時はシート・ミュージックを販売する会社が集まっていました。ティン・パン・アレーはアメリカの音楽産業の中心地となり、レコード普及後も影響力をますます強めていきます。

 ティン・パン・アレーの特徴は、その徹底した分業制です。シート・ミュージックを販売していた時代から、作詞家、作曲家、編曲家などを別々に用意し、あたかも工場の流れ作業のように、システマティックに音楽を制作していきました。

 レコードが普及し、第二次大戦後には、キャピトル、コロンビア、デッカ、ビクター、マーキュリー、MGMの「六大メジャー」と呼ばれるレコード会社が業界を牛耳るようになり、ティン・パン・アレーはこれらのメジャー・レーベルに多数の楽曲を提供することになります。

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