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 子供のころから音楽が大好きです! いろいろな音楽を聴いていくうちに、いつのまにやらUSインディーズの深い森へ。  主にアメリカのインディーズ・レーベルに所属するバンドのディスク・レビュー、レーベル・ガイドなどをマイペースに書いています。インディーズの奥の深さ、楽しみ方、おすすめのバンドなど、自分なりにお伝えできればと思っています。お気に入りのバンド、作品、レーベルを探すうえで、少しでも参考になれば幸いです。

11, パンク・ブーム以後の時代 (1978年〜)


目次
イントロダクション
パンクからの派生ジャンル
ノー・ウェーブ
ZEレコード
ハードコア・パンク
ブラック・フラッグ
SST
マイナー・スレット
ディスコード
R.E.M.とカレッジ・ロック
その他の重要レーベル
ディスク・ガイド

イントロダクション

 ピストルズを着火点に広がった、世界的なパンク旋風。その後、パンク・ムーヴメント自体は下火になるものの、パンクから派生するかたちで様々なジャンルが生まれます。それと比例するように、全米各地にインディー・シーンおよびインディペンデント・レーベルが誕生。

 このページでは、パンク以後に生まれた代表的なジャンルとレーベルを挙げながら、USインディー・ロックの発展と拡大を追っていきます。このあたりから、地域ごとの個性が際立ち、USインディーらしい奥深さが生まれていきますよ!

パンクからの派生ジャンル

 「パンク」と一口に言っても、もちろんバンドごとに音楽性は異なりますし、ロンドン・パンクとニューヨーク・パンクでも、大きく毛色が変わります。

 また、例えば同じピストルズに影響を受けたバンドでも、彼らの音楽性や思想をコピーしようとする者もいれば、さらに過激に発展させようとする者、さらにはカウンターで全く逆のことをやろうとする者さえいます。

 では、70年代後半のパンク旋風が過ぎ去ったあと、その影響がどのように引き継がれ、どのようなジャンルが生まれたのか。いくつかの代表的なジャンルと地域、そしてレーベルを参照しながら、ご紹介します。

 具体的には、ニューヨークのノー・ウェーブ、各地で生まれたハードコア・パンク、そしてカレッジ・ロックの文化。この3つを軸に話を進めます。

ノー・ウェーヴ

 まずはニューヨーク・パンクを育み、ロンドンと共にパンクの出発点のひとつとなった、ニューヨークに注目してみましょう。シンプルな8ビートのロックを下敷きに、反体制的なメッセージを発するロンドン・パンクと比較して、ニューヨーク・パンクは当初から実験性とアート性を重視した音楽を繰り広げていました。

 古くから貿易の中心地であり、マンハッタン周辺の狭いエリアに、多様な民族が暮らしてきたニューヨーク。パンクの季節が過ぎ去り、1970年代後半からは、ポストパンクの動きが加速します。

 一般的にポストパンクと言うと、シンプルなロックを基調としていた、パンクの音楽的構造へのカウンターで、シンセサイザーの音色を用いる、複雑なビートを持ち込むなどして、非ロックへと向かう音楽を指します。この流れは、ピストルズとパブリック・イメージ・リミテッド(Public Image Ltd)を中心にした、イギリスを例にとっても分かりやすいでしょう。

 ニューヨーク・パンクに分類されるバンドの一部は、前述したポストパンクの要素を、当初から持ち合わせていました。例を挙げるなら、トーキング・ヘッズにおける多彩なビートの導入や、テレヴィジョンにおける歌詞の文学性と音楽の実験性などです。

 また、政治に対して反抗的なアティチュードが特徴のロンドン・パンクと比較すると、ニューヨーク・パンクは音楽的・芸術的な面で、従来の方法論に反抗する、という特徴を持っていました。

 パンク旋風が過ぎ去ったあと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからニューヨーク・パンクへと繋がる方向性を、さらに過激に押し進めたのが、ノー・ウェーブ(No Wave)と呼ばれるムーヴメントです。

 このムーヴメントを代表する1枚が、1978年にリリースされた『No New York』。トーキング・ヘッズの2ndアルバム『More Songs About Buildings And Food』のプロデュースのため、ニューヨークに滞在していたブライアン・イーノが、当地でノー・ウェーブのバンドのライヴを目撃。

 そこで目にした4バンドに声をかけ、彼がプロデューサーとしてまとめたコンピレーション・アルバムが、この『No New York』です。収録されたのは、コントーションズ(Contortions)、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス(Teenage Jesus And The Jerks)、マーズ(Mars)、DNAの4組。いずれも当時のノー・ウェーブを代表するグループでした。

 商業化したロックへのアンチテーゼでもあった彼らの音楽は、フリージャズや実験音楽からの影響も色濃く、極めて実験的。そのため、商業的に成功することはなく、ノー・ウェーブのムーヴメントも短命に終わります。

 しかし、彼らのバラまいたオルタナティヴの種は、ソニック・ユースを筆頭に後続のバンドへ引き継がれ、ニューヨークのアングラ、インディー・シーンは、やがて大きく花開きます。

ZEレコード

 ノー・ウェーブが盛り上がる中で、メジャー的ではない同ムーヴメントの音楽をリリースする、インディペンデント・レーベルが誕生します。それが、イラク系イギリス人のマイケル・ジルカと、フランス人のマイケル・エステバンによって、1978年に設立されたZEレコード(ZE Records)

 『No New York』にも参加していたマーズ、DNAのメンバーだったアート・リンゼイ、コントーションズを率いたジェームス・チャンスの作品などをリリースします。

 ちなみに『No New York』は、メジャーのアイランド・レコード傘下のアンティルス(Antilles)というレーベルからのリリース。これは、ブライアン・イーノがアイランド・レコードに、コンピレーションの企画を持ち込み、実現したようです。

ハードコア・パンク

 次にご紹介するのは、ハードコア・パンク。パンク・ロックの持つ攻撃性を引き継ぎ、先鋭化させたジャンルです。

 ピストルズやラモーンズなど、パンクに分類されるバンドの多くは、シンプルなロックンロールを下敷きにした音楽性を持っていました。また、特にロンドン・パンクのバンドには、思想的に反体制であったり、歌詞が攻撃的なバンドが多く見受けられます。

 そのような攻撃性を抽出し、先鋭化させていったジャンルが「ハードコア・パンク」です。そのため、このジャンルの特徴というと、パンクよりもテンポが高速であること、パンク以上に激しくシャウトし、ギターも歪ませること、などが挙げられます。

 それでは、ここからアメリカにおけるハードコアの第一世代で、後進のバンドにも多大な影響を与えたバンドを二つご紹介していきます。まず、ひとつ目のバンドは、1976年にカリフォルニア州ハモサビーチで結成されたブラック・フラッグ(Black Flag)。そして、もうひとつは、1980年にワシントンD.C.で結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 彼らはそれぞれ、自らのレーベルを立ち上げ、地元シーンの活性化にも貢献。また、バンドで自らレーベルを立ち上げる、モデル・ケースともなりました。

 では、これから上記2つのバンドが結成され、各地のシーンが活性化していくプロセスを、ご紹介します。

ブラック・フラッグ

 まずは、ブラック・フラッグ(Black Flag)と、SSTレコードについて。

 ロンドンとニューヨークのパンク・バンドに感化され、各地でパンク・バンドが結成されます。南カリフォルニアで結成された、ブラック・フラッグもそのひとつ。

 ブラッグ・フラッグの中心メンバーであり、のちにSSTレコードを設立する、グレッグ・ギン(Greg Ginn)は、1954年にアリゾナ州ツーソンで生まれました。

 その後、一家はカリフォルニア州ベーカーズフィールド郊外の農村へ引っ越し、ギンは幼少期を同地で過ごします。兄弟姉妹は、彼を含め5人。父親は学校の教師をしていましたが、収入は少なく、生活は決して楽ではなかったようです。

 1962年、ギンが8歳のときに、一家は同じカリフォルニア州内のハモサビーチへ引っ越し。いわゆる、ロサンゼルス大都市圏(Greater Los Angeles Area)の中に位置する、白人中産階級が暮らすエリアです。

 同地は1950年代には、ビートニク(Beatnik)と呼ばれる、先進的な文学グループのメッカでしたが、ギンが引っ越す頃には、サーファー達に愛される場所へと、様変わり。やがてギンは、同地の物質主義的な風土を軽蔑するようになり、詩作やアマチュア無線を好む、物静かな少年となります。

 12歳になると、ラジオの部品を通信販売するビジネスを立ち上げ、その会社をソリッド・ステイト・チューナーズ(Solid State Tuners)と名付けます。略して、SST。のちのSSTレコードの由来にもなる名称です。

 幼少期からティーンエイジャーを通して、音楽には興味を示さなかったギン。しかし、そんな彼にも、音楽へ目覚めるきっかけが訪れます。1972年、彼が18歳のときに、地元ラジオ局から賞品としてもらった、デイヴィッド・アクルス(David Ackles)の『American Gothic』。

 デイヴィッド・アクルスは、1937年生まれのシンガーソングライターで、商業的には成功しなかったものの、ルーツ・ミュージックを含んだ多様なジャンルを参照したサウンドは、評論家やミュージシャンから、高い評価を得ていました。『American Gothic』は、1972年にリリースされた、彼の代表作。

 商業的な3分間のポップ・ソングには、興味が持てなかったギンですが、本作で音楽に目覚め、アコースティック・ギターを手にします。やがて、エレキ・ギターを手に取り、作曲も始めます。

 1970年代の中頃、ハモサビーチで人気を博していたのは、ジェネシス(Genesis)を筆頭に、イギリスの華やかなバンドたち。しかし、ギンが好んだのはテクニカルで端正な70年代のバンドよりも、プリミティヴな60年代のバンドでした。

 周囲で人気のバンドに興味が持てないギンに、ここで再び転機が訪れます。ヴィレッジ・ヴォイス(The Village Voice)誌を読んでいるときに見かけた、パンク・ロックに関する記事。そこで紹介されていたのは、マクシズ・カンザス・シティ(Max’s Kansas City)やGBGBなど、当時パンク・バンドが多数出演していた、ニューヨークのライブ・ハウスです。

 音を聴く前から、パンク・ロックこそ自分が探していたものだと確信し、パンクをはじめ、ギンはさらに多くの音楽を聴くようになります。そして1976年、ギンが22歳のとき、遂にブラック・フラッグが結成されます。

 「ブラック・フラッグ」というバンド名は、ギンの弟であり、画家として同バンドのロゴをデザインした、レイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)の提案によるもの。「白旗が降参を意味するなら、黒旗はアナーキーをあらわす」というペティボンの考えに基づいています。

 1978年に、ギンはブラック・フラッグの音源をリリースするため、自らのレーベルSSTを設立。翌1979年には、SST最初のリリース作品として、ブラック・フラッグのEP『Nervous Breakdown』が発売されています。

 さて、ハードコア・パンクを代表するバンドのひとつと目されるブラック・フラッグ。彼らの音楽は、ラモーンズ的なパンクのシンプリシティに、無調性なギターソロを合わせ、現代音楽的な実験性を持ち込んだところが特徴でした。

 また、ヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)の絞り出すようにかすれたボーカル、全体の荒々しくざらついたサウンド・プロダクションも、ピストルズやラモーンズに、音質面で攻撃性をプラスしていると言えるでしょう。

 アルバムを追うごとに、リズムの面でも実験性を増していきます。当初は前のめりに疾走するリズムが主軸だったものの、やがてテンポの切り替えを頻繁におこなう曲、スローテンポで音響やアンサンブルを前景化させる曲などが増加。

 シンプルなパンクに、フリージャズや現代音楽の要素を持ち込み、当初のハードコア・パンクから、徐々にハードコアを越えたポスト・ハードコアへと、音楽性を変化させていきました。
 

SST

 元々はブラッグ・フラッグの音源をリリースするために設立された、SSTレコード。やがて、地元カリフォルニア州のパンク・バンドを中心にリリースを増やし、レーベルとしての活動が、徐々に軌道に乗っていきます。

 まず、ブラッグ・フラッグに続いて、同レーベルから作品をリリースしたのは、ロサンゼルスのサンペドロ出身のミニットメン(Minutemen)。同じくロサンゼルス出身のサッカリン・トラスト(Saccharine Trust)と、オーヴァーキルL.A.(Overkill L.A.)が、それに続きます。

 1982年には、初のカリフォルニア州外のバンドとなる、アリゾナ州フェニックス出身のミート・パペッツ(Meat Puppets)と契約。以降は、州外のバンドとの契約も増え、ミネスタ出身のハスカー・ドゥ(Hüsker Dü)、ニューヨーク拠点のソニック・ユース(Sonic Youth)、マサチューセッツ出身のダイナソーJr.(Dinosaur Jr.)、ワシントン州出身のスクリーミング・トゥリーズ(Screaming Trees)などの作品をリリース。SSTは80年代のUSインディー・ロックを牽引するレーベルのひとつへ成長します。

 SSTがこのような発展を遂げたのは、彼らがアメリカ全土をツアーで回りながら、各地のバンドやレーベルとの、横の繋がりを構築していったため。各地で非メジャー的なバンドと交流を結び、彼らのレコードをSSTからリリースし、メジャーとは一線を画する音楽を紹介するレーベルとして、一種のブランド的な人気を獲得していきます。

 また、ブラッグ・フラッグは結成当初、なかなかボーカリストが安定しませんでした。ヘンリー・ロリンズが加入するのは1981年。実はロリンズはカリフォルニア出身ではなく、東海岸のワシントンD.C.の出身です。

 ブラッグ・フラッグとロリンズが出会うきっかけとなったのも、前述の全米規模のツアー。ロリンズは、ステイト・オブ・アラート(State Of Alert)というバンドのボーカルを務めており、ワシントンD.C.では知られた存在でした。そのため、ロリンズの加入はブラッグ・フラッグの音楽性の発展のみならず、東海岸での知名度獲得にも貢献します。

 テレビや雑誌を利用した大量の広告と、全米規模の販売網を持つメジャー・レーベルとは違い、DIY精神に乗っとった、地道な草の根活動で、シーンを拡大したハードコア・パンク。そして、ブラッグ・フラッグおよびSSTに影響を受けたバンドが、また自らのレーベルを立ち上げ、USインディーは徐々に土壌を整えていくのです。

マイナー・スレット

 続いて西海岸から、東海岸のワシントンD.C.に、目を移しましょう。ここにも、ハードコアの伝説的なバンドが誕生します。イアン・マッケイ(Ian MacKaye)を中心に結成されたマイナー・スレット(Minor Threat)です。

 ボーカルのイアン・マッケイと、ドラムのジェフ・ネルソン(Jeff Nelson)は、1979年に結成されたティーン・アイドルズ(The Teen Idles)でも活動を共にしていました。この、ティーン・アイドルズのEPをリリースするため、マッケイとネルソンによって設立されたレーベルが、ディスコード・レコード(Dischord Records)。

 しかし、同バンドは1980年に解散。マッケイとネルソンを含む一部のメンバーが、新たにマイナー・スレットを結成します。

 ワシントンD.C.は、言うまでもなくアメリカ合衆国の首都であり、多数の大使館や金融機関がオフィスを構える、国際的な政治の中心地です。しかし、人口は60万人ほど。ニューヨークやロサンゼルスと比較すれば少なく、またシカゴやニューオーリンズのように、個性的な文化を持っているわけでもありません。

 語弊を恐れずに言えば、ファッションの発信地でも、文化の中心地でもない、ワシントンD.C.。そんな地味な都市で、ハードコアの豊かなシーンが形成されたという事実が、逆説的にハードコアとインディーズ文化の力強さを、証明しているとも言えるでしょう。

 すなわち、大都市ではなく、個性的な文化や歴史のバックボーンが無くとも、情熱を持ったいくつかのバンドが集まれば、十分にシーンを形成し、やがて全米レベルで名をあげられるということです。

 それでは、同地で生まれたディスコードというレーベルが中心となり、やがて「DCハードコア」と呼ばれるまでにシーンが発展していくプロセスを、これからご紹介していきます。まずは、ディスコードの設立者の1人であり、マイナースレットのメンバーでもある、イアン・マッケイの話から始めましょう。

 イアン・マッケイは1962年、ワシントンD.C.で生まれました。父親は、ワシントン・ポスト紙の記者。有能なジャーナリストであり、マッケイは非常に知的で、オープンマインドな環境で、育てられたようです。

 14歳のとき、のちにブラッグ・フラッグに加入するヘンリー・ロリンズと、家が近所だったために知り合い、現在に到るまでの親友となります。

 当時、マッケイとロリンズが夢中になったのは、ハードロック系のギタリスト、テッド・ニュージェント(Ted Nugent)。音楽もさることながら、酒もタバコもドラッグもやらないという彼の態度に、感銘を受けます。

 当時のマッケイのアイドルは、テッド・ニュージェントの他に、クイーン(Queen)やレッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)など。ウッドストックの映像を何度も見返し、ミュージシャンになりたい、と思うようになります。しかし、自分が憧れるロック・バンドに比べて、自分に才能がないことは明らか。その夢を、早々に諦めていました。

 そんなマッケイ青年の人生を変えたのが、パンク・ロックとの出会いです。出会いのきっかけは、カレッジ・ラジオ。地元ワシントンD.C.の近郊・ジョージタウンにある、ジョージタウン大学のカレッジ・ラジオ局「WGTB」で、パンク・ロックを流していたのです。カレッジ・ラジオの文化に関しては、後述します。

 パンクと出会った、当時高校生のマッケイは、地元のパンク・バンドのライヴに、足を運ぶようになります。マッケイに特に衝撃を与えたのが、バッド・ブレインズ(Bad Brains)です。

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人の4人組で、元々はマインド・パワー(Mind power)という、ジャズ・ロックやフージョン系のバンドで活動していました。バッド・ブレインズの音楽は、スピード重視のハードコア・パンクを基調としながら、レゲエやメタル、ジャズ、ファンクの要素まで取り込んだ、唯一無二のもの。

 バッド・ブレインズの音楽は非常に高度なものでしたが、「音楽的には未熟でも良い」というパンク・ロックの精神に惹かれ、マッケイは自らもバンドを結成できると確信します。そうして、同じウィルソン高校(Woodrow Wilson High School)に通う友人のジェフ・ネルソンらと共に、ティーン・アイドルズを結成。1979年、マッケイが17歳のときでした。

 ティーン・アイドルズは、メンバー間の方向性の違いから1年ほどで解散しますが、マッケイとネルソンは新たなバンドを結成します。それが、マイナー・スレットです。また、ティーン・アイドルズ時代にレコーディングした音源をリリースするため、同時期にはディスコード・レコードも設立されています。

 マイナー・スレットも活動期間は短く、1980年から1983年までの4年弱。活動中にリリースした音源も、数枚のみ。しかし、そのスピーディーでタイトな音楽性で、ハードコアの伝説的なバンドとなります。

 また、音楽性と並んで、彼らの影響力の源泉となったのが、徹底したDIY精神と、ストレート・エッジ(Straight Edge)と呼ばれる思想です。

 ストレート・エッジとは、「セックス、ドラッグ、ロックンロール!」という言葉に集約される、快楽的なロックの価値観を否定し、酒もタバコもドラッグもやらない、禁欲的な思想やライフスタイルを指す言葉。マイナー・スレットに「Straight Edge」というタイトルの楽曲があり、イアン・マッケイが、最初の提唱者と言われています。

 音楽面と精神面の両面で、ストイックに自分たちの理想を示したマイナー・スレット。レーベル運営のシステムも含めて、後続のバンドに大きな影響を与えました。

ディスコード

 続いて、マイナー・スレットのメンバーである、イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが設立したレーベル、ディスコード・レコード(Dischord Records)に話を進めましょう。

 ディスコードが設立されたのは1980年。マイナー・スレットの前身バンドであるティーン・アイドルズの音源を、リリースするためでした。

 ティーン・アイドルズに続いて、2枚目のリリースとなったのは、ステイト・オブ・アラートの『No Policy』。マッケイの友人であり、のちにブラッグ・フラッグに加入する、ヘンリー・ロリンズが在籍していたバンドです。

 その後もワシントンD.C.周辺のハードコア・バンドを中心に、リリースを重ねていきます。80年代前半の主なバンドを挙げると、ガヴァメント・イシュー(Government Issue)、フェイス(The Faith)、スクリーム(Scream)など。

 もちろん、ティーン・アイドルズ解散後に、マッケイとネルソンが結成した、マイナー・スレットの一連の作品も、ディスコードからリリースされています。

 マイナー・スレットは1983年に解散し、マッケイは新たにフガジ(Fugazi)を結成。疾走感あふれる、タイトなハードコア・サウンドが持ち味だったマイナー・スレットとは変わって、より複雑なアンサンブルを志向するポスト・ハードコアへと、音楽性が発展していきます。

 フガジと呼応するように、80年代中盤以降はディスコードからリリースされるバンドも、より多様性と実験性を増していき、時代はハードコアから、ポスト・ハードコアへと移行。ディスコードは、この流れの中心のひとつとなり、シーンを牽引していきます。

 80年代中盤から90年代にかけて、フガジを筆頭に、ライツ・オブ・スプリング(Rites of Spring)、ネイション・オブ・ユリシーズ(Nation Of Ulysses)、ジョーボックス(Jawbox)、シャダー・トゥー・シンク(Shudder To Think)、ラングフィッシュ(Lungfish)など、多くのバンドを輩出。

 ハードコアからポスト・ハードコアへと繋がる、メジャーとは一線を画したブレない音楽性は、世界中にフォロワーを生み、USインディー・シーンの最重要レーベルのひとつと認識されるまでになります。

R.E.M.とカレッジ・ロック

 パンクからハードコア、そしてDIY精神に根ざしたレーベル設立の流れとは別の、もうひとつの文化をご紹介します。インディー・レーベルと共に、各地のシーン勃興に大きく貢献した、カレッジラジオ(college radio)の文化です。

 カレッジ・ラジオとは、その名のとおり大学のキャンパス内や、学園都市に開設される、学生向けの放送をおこなうFMラジオ局のこと。そのため、英語圏ではキャンパス・ラジオ(campus radio)とも呼ばれます。

 放送範囲が狭く、対象も学生および若者とハッキリしており、インディーズ・レーベルと同じく、メジャー的ではない個性的な音楽を流します。

 全米各地のカレッジ・ラジオ局を繋ぎ、独自の文化として発展させたのが、カレッジ・ミュージック・ジャーナル(College Media Journal)、通称CMJです。CMJは、1978年に創刊された、カレッジ・ラジオのチャートや情報を掲載する音楽誌。

 各地に点在するカレッジ・ラジオ局の放送曲を集計し、チャートとして発表。小さな地方都市で活動するバンドが、メジャー・デビューしなくとも、脚光を浴びる道が拓かれました。いわば、インターネットが無い時代に、インターネット上のコミュニティのように、情報を拡散するシステムとして機能した、とも言えるでしょう。

 1982年には、CMJニュー・ミュージック・レポート(CMJ New Music Report)と改称し、メジャーではMTVが全盛となるなか、メジャーとは別種の音楽を紹介するメディアとして、多大な影響力を持つようになります。また、カレッジ・ラジオでかかるロックが、「カレッジ・ロック」とも呼ばれるようになります。

 そして、このカレッジ・ラジオの文化の中から登場した代表的なバンドが、ジョージア州アセンズ出身のR.E.M.。1980年に、学生都市アセンズで結成されたR.E.M.は、カレッジ・ラジオでの人気を追い風に、全米規模の人気のバンドへと登りつめていきます。

 メジャー・レーベルA&M傘下のインディー部門(メジャー資本が入っているため、純粋なインディー・レーベルと呼ぶべきかは微妙)として設立された、I.R.S.からリリースの1stアルバム『Murmur』は、サイケデリックなギターロックとでも呼ぶべき音楽が展開され、いわゆるパンク・ロックとは全く異なる音楽。

 パンクへのカウンターとして機能する、ポストパンクやニューウェーヴの一種とも、言えなくもないですし、シーンの流れに関係なく、地方の一バンドでも良い音楽を作れば、ラジオをきっかけにブレイクできる証左とも言えます。

 ここで、パンクとは異なるもうひとつの流れとして、「ペイズリー・アンダーグラウンド」(Paisley Underground)をご紹介しておきましょう。

 ペイズリー・アンダーグラウンドとは、80年代にカリフォルニアを中心に起こった、60年代のジャングル・ポップやサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックをリヴァイヴァルするムーヴメントのこと。

 70年代の洗練されたロックではなく、よりプリミティヴな60年代のロックへ回帰するところは、既存のロックへのアンチテーゼでもあったパンク・ロックと、地続きであるとも言えるでしょう。

 このページでは全てお伝えしきれませんが、パンクやハードコア以外にも、多様なジャンルのバンドが、全米各地で生まれていくのもこの時期です。その土壌を用意したのが、各地のインディペンデント・レーベルであり、カレッジ・ラジオ局でした。

その他の重要レーベル

 この時期に設立・活躍した、その他の重要レーベルを、いくつかご紹介します。

 まずは、カリフォルニア州サンフランシスコ出身のパンク・バンド、デッド・ケネディーズ(Dead Kennedys)のジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)とイースト・ベイ・レイ(East Bay Ray)によって設立された、オルタナティヴ・テンタクルズ(Alternative Tentacles)

 1979年に設立された同レーベルは、パンクを基調としつつ、パンクの枠組みだけに収まらない、個性的なバンドの作品をリリース。D.O.A.やディックス(Dicks)、初期のバットホール・サーファーズ(Butthole Surfers)等のバンドが、作品を残しています。

 1978年にカリフォルニア州ロサンゼルスで設立されたスラッシュ(Slash)は、ジャームス(Germs)やエックス(X)、ザ・ブラスターズ(The Blasters)などの作品をリリース。ロサンゼルスのパンク・シーンを盛り上げました。

 リプレイスメンツ(The Replacements)やソウル・アサイラム(Soul Asylum)が所属していた、ミネソタ州ミネアポリスのツイン・トーン(Twin/Tone)、インダストリアルに特化したワックス・トラックス!(Wax Trax!)など、地域やジャンルに根ざしたレーベルも、生まれ始めます。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンド、および関連バンドのディスクガイドです。

Various Artists “No New York” (1978 Antilles)

コンピレーション・アルバム 『ノー・ニューヨーク』 (1978年 アンティルス)

 ブライアン・イーノがプロデューサーを務めた、ノー・ウェーヴを代表する4バンドの音源を収録したコンピレーション。ノー・ウェーヴは短命かつ限定的なムーヴメントだったので、これ1枚を聴けば、概要はつかめるでしょう。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・パンクの実験性を、さらに先鋭化したサウンドが聴けます。残念ながら、今のところデジタル配信は無いようです。


James Chance & The Contortions “Buy” (1979 ZE Records)

ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ 『バイ』 (1979年 ZEレコード)

 『No New York』にも参加していた、コントーションズの1stアルバム。バンドを率いるジェームス・チャンスは、フリージャズの分野でも活動する、サックス奏者。

 「ロックとジャズの融合」と書くと、あまりにも単純化が過ぎますが、トライバルなビートと、アヴァンギャルドなフレーズが合わさり、ポストパンクをフリージャズの方向に先鋭化させたようなサウンドを作り上げています。

 


Lydia Lunch “Queen Of Siam” (1980 ZE Records)

リディア・ランチ 『クイーン・オブ・シャム』 (1980年 ZEレコード)

 『No New York』に参加した、ティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス(Teenage Jesus & The Jerks)のメンバーだったリディア・ランチの初ソロ・アルバム。

 ピアノやホーンが用いられ、サウンドは華やかですが、ハーモニーとメロディーには、実験性が色濃く出ています。

 


Black Flag “Damaged” (1981 SST)

ブラック・フラッグ 『ダメージド』 (1981年 SST)

 ボーカルにヘンリー・ロリンズを迎え制作された、ブラック・フラッグの1stアルバム。

 前のめりに疾走するリズムと、ざらついたサウンド、絞り出すようなボーカルと、ハードコア的な要素を多分に含みながら、3曲目「Six Pack」のように、各楽器が有機的に組み合うアンサンブルも共存しています。

 


Minutemen “The Punch Line” (1981 SST)

ミニットメン 『ザ・パンチ・ライン』 (1981年 SST)

 カリフォルニア州ロサンゼルス・サンペドロ出身のバンドの1stアルバム。ジャンルとしてはハードコア・パンクに括られるのでしょうが、リズムはファンクのようにシャッフルしたり、前につんのめるようだったりと、なかなか複雑。

 ルーツ・ミュージックからの影響も感じる、奥の深い音楽を作り上げています。初期SSTを代表するバンドのひとつ。

 


Meat Puppets “Meat Puppets” (1982 SST)

ミート・パペッツ 『ミート・パペッツ』 (1982年 SST)

 アリゾナ州フェニックス出身のバンド、ミート・パペッツの1stアルバム。

 前のめりに疾走していくハードコア・パンクを基調とした音楽性ですが、ギターのねじれたフレーズや、バンド全体で揺らぐようなアンサンブルからは、のちのオルタナティヴ・ロックの要素も感じられます。


Bad Brains “Bad Brains” (1982 ROIR)

バッド・ブレインズ 『バッド・ブレインズ』 (1982年 ロアー)

 メンバー全員がアフリカ系アメリカ人のハードコア・パンク・バンド、バッド・ブレインズの1stアルバム。ニューヨークのROIRというレーベルからのリリース。

 彼らの音楽性は、しばしばハードコアとレゲエやファンクなど、複数のジャンルが融合していると説明されます。本作も、高速なリズムに乗って、直線的に走るだけではない、スウィング感のあるアンサンブルが展開。3rdアルバム『I Against I』は、SSTからリリースされています。

 


The Teen Idles “Minor Disturbance” (1980 Dischord)

ティーン・アイドルズ 『マイナー・ディスターバンス』 (1980年 ディスコード)

 ディスコードの記念すべき、カタログ・ナンバー1番。イアン・マッケイとジェフ・ネルソンが、高校時代に組んでいたバンドのEP作品。

 8曲入りで、収録時間はわずか9分20秒。スピード重視の疾走感に溢れたハードコア・パンクが、展開されています。

 


Minor Threat “Out Of Step” (1983 Dischord)

マイナー・スレット 『アウト・オブ・ステップ』 (1983年 ディスコード)

 マイナー・スレットの1stアルバムであり、唯一のオリジナル・アルバム。ハードコア・パンクを代表するバンドらしく、タイトで疾走感にあふれた演奏が繰り広げられます。

 しかし、ただ直線的に速いだけではなく、アンサンブルには凝ったところもあり、ポスト・ハードコアへと繋がる要素も垣間見える1作。

 


R.E.M. “Murmur” (1983 I.R.S.)

R.E.M. 『マーマー』 (1983年 I.R.S.)

 カレッジ・ロックの申し子、R.E.M.のデビュー・アルバム。ギターを主軸に据えながら、単にギターロックとは呼びがたい、実験的なフレーズや、もやのかかったようなサイケデリックな音像が共存。

 その音楽性は、ポストパンクのようでもあり、ギターポップのようでもあり、ほのかに60年代の香りも漂います。メンバーの音楽オタクっぷりが垣間見え、当時の知的な大学生に支持されたのも、納得のアルバム。

 


関連バンド作品の個別レビュー

Bad Brains – バッド・ブレインズ
I Against I (SST 1986)

Bluetip – ブルーチップ
Dischord No. 101 (Dischord 1996)
Join Us (Dischord 1998)
Polymer (Dischord 2000)

Dead Kennedys – デッド・ケネディーズ
Fresh Fruit For Rotting Vegetables (Alternative Tentacles, Cherry Red 1980)

Descendents – ディセンデンツ
Milo Goes To College (New Alliance 1982, SST 1987)
I Don’t Want To Grow Up (New Alliance 1985, SST 1987)

Dinosaur Jr. – ダイナソーJr.
You’re Living All Over Me (SST 1987)
Bug (SST 1988)

Fugazi – フガジ
In On The Kill Taker (Dischord 1993)
Red Medicine (Dischord 1995)
The Argument (Dischord 2001)

Germs – ジャームス
(GI) (Slash 1979)

Hüsker Dü – ハスカー・ドゥ
New Day Rising (SST 1985)

James Chance & The Contortions – ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ
Buy (ZE Records 1979)

James White & The Blacks – ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス
Off White (ZE Records 1979)

Meat Puppets – ミート・パペッツ
Meat Puppets (SST 1982)
Meat Puppets II (SST 1984)
Up On The Sun (SST 1985)
Mirage (SST 1987)
Huevos (SST 1987)
Monsters (SST 1989)

Minor Threat – マイナー・スレット
Out Of Step (Dischord 1983)
First Two Seven Inches (Dischord 1984)

Nation Of Ulysses – ネイション・オブ・ユリシーズ
13-Point Program To Destroy America (Dischord 1991)
Plays Pretty For Baby (Dischord 1992)

Rites Of Spring – ライツ・オブ・スプリング
Rites Of Spring (Dischord 1985)

Sonic Youth – ソニック・ユース
EVOL (SST 1986)

X – エックス
Los Angeles (Slash 1980)
Wild Gift (Slash 1981)

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10, ニューヨーク・パンク (1974年〜)


目次
イントロダクション
ニューヨーク・パンクの誕生 (1970年代前半〜)
イギリスでのインディー・レーベルの隆盛
アメリカでのインディー・レーベルの隆盛
パンクからの派生 (1970年代後半〜)
ロック誕生からUSインディーまでの流れ
ディスク・ガイド

イントロダクション

 ここまで順番にお読みいただいた方には、内容が重複する部分もありますが、ここからの「第2部」は実際に各地でインディー・シーンが形成され、インディペンデント・レーベルが生まれていく過程をご紹介します。

 「第1部」に比べると、インディーズのバンド名やレーベル名を多く挙げていきますので、違った印象でお読みいただけると思います。まずは、1970年代後半から、全米各地にインディー・シーンが生まれていく前段階、ニューヨーク・パンクの誕生から話を始めましょう。

 と、その前に、なぜパンクをUSインディー・ロックの出発点に位置づけるのか、ご説明します。詳細は後述しますが、パンクの特徴のひとつとして、既存の音楽やシステムへの、反抗であることが挙げられます。

 巨大な資本が投入されたシステムと、大衆に寄り添ったコマーシャルな音楽。そうした体制へのカウンター精神が、パンク・ブームが去った後にも、一部のバンドに多大な影響を及ぼし、ハードコアやローファイへと変化、さらにはオルタナティヴ・ロックへと繋がっていくのです。

 パンクからジャンルが派生していく流れを意識すると、これから記述する話の見通しも、良くなることでしょう。それでは、まずは1970年代のニューヨークから、話を始めます。

ニューヨーク・パンクの誕生 (1970年代前半〜)

 ロックが生まれたのは1950年代。当時から、サン・レコードやチェス・レコード、エレクトラなど、ロックを扱うインディペンデント・レーベルは生まれていました。

 しかし、現在の「USインディー・ロック」に、直接的に繋がるレーベルと文化が生まれ始めるのは、1970年代後半から。そのUSインディー・ロック文化の前段階となるのが、ニューヨーク・パンクおよび世界規模でのパンク・ムーブメントです。パンクは音楽性と精神性の両面で、のちのUSインディー・ロックの基礎となりました。

 パンク・ロックの第一世代というと、セックス・ピストルズやザ・クラッシュなど、ロンドン・パンクのバンドを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。僕自身もそうです。

 しかし、後に「ニューヨーク・パンク」に括られることになるバンド群が結成されたのは、ロンドン・パンクのバンドよりも少しだけ早く、ニューヨークのバンドを模倣するかたちで、ロンドンのパンク・バンドたちが結成されていったと言われています。

 では、ニューヨーク・パンク誕生のきっかけとなり、彼らに影響を与えたバンドや文化は何か? バンドでいえば1960年代に活躍した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやMC5、イギー・ポップ率いるザ・ストゥージズなど。文化現象を挙げると、やはり1960年代に起こったビート・ジェネレーションやヒッピー・ムーブメントなど、既存の価値観に反対するカウンターカルチャーです。

 アート性と実験性の高い音楽を志向した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。R&Bを下敷きにした音楽性を持ちながら、過激なライブ・パフォーマンスと言動が評判を呼んだMC5。そして、MC5と共にガレージ・ロックの代表バンドと目され、こちらも過激なライブ・パフォーマンスが注目されたザ・ストゥージズ。

 いずれのバンドも、1960年代当時は、商業的な成功を収めることはできませんでした。しかし、音楽産業が発展し、メジャー・レーベルがビッグ・ヒットを生み出すなかで、メジャーとは一線を画する音楽性を持つ彼らは、カウンターとして一部の音楽ファンの熱烈な支持を集めることになります。

 そうして、彼らに影響を受け、1973年から74年にかけて結成されたのが、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラモーンズの3バンド。彼らは音楽的には、多くの共通点は認められないものの、やがて「ニューヨーク・パンク」というジャンルに分類され、その代表バンドと目されるようになります。

 ちなみに「パンク・ロック(punk rock)」という言葉は、1960年代から1970年代前半のガレージ・バンドを形容するため、アメリカの批評家たちが用いたのが、起源だと言われています。

 1970年代に入ると、ロックは良くも悪くも、ますます巨大な音楽産業に組み込まれ、また音楽的にも、ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックなど、テクニカルで洗練されたものが主流となっていきます。そんな時代に逆行するように、大衆に受け入れられることよりも、自らの表現にプライオリティを置いた、ニューヨーク・パンクのバンドたち。

 ライダースジャケットとダメージ・ジーンズを着こみ、初期衝動をそのまま音にしたような、シンプルなロックを鳴らし続け、最も「パンク・ロック」のパブリック・イメージに近いバンドと言ってもよいラモーンズ。文学的な歌詞と、アート性の高い音楽を併せ持ったテレヴィジョン。美術大学出身らしい知性を持ち、アフリカ的なリズムを取り入れるなど、ロックの枠にとどまらない音楽を展開するトーキング・ヘッズ。

 例に挙げた3バンドは、それぞれその後のUSインディー・シーンに、多大な影響を与えることになります。

イギリスでのインディー・レーベルの隆盛

 続いて、イギリスに視点を移しましょう。ピストルズをはじめ、初期のロンドン・パンクのバンドにおいて強調されるのは、演奏や作曲のスキルよりも、とにかく叫びたいことがある!という態度。言い換えれば、演奏家としてのプロフェッショナリズムよりも、アマチュアリズムに貫かれた音楽です。

 ピストルズは、数々のトラブルを引き起こしながらも、1stアルバムをメジャーのヴァージン・レコードより発売。ピストルズと並び、ロンドン・パンクを代表するバンドであるザ・クラッシュも、メジャーのCBSからのデビュー。しかし、彼らと共に、ロンドン・パンクの三大バンドとも呼ばれるザ・ダムドは、インディーズのスティッフ・レコード(Stiff Records)からデビューしています。

 それまでは、メジャー・レーベルに引き上げられる形でデビューというのが基本だったのが、パンクの誕生とブームを境目に、徐々に小規模なレーベルが、自らの理想に従って作品をリリースする、というインディーズ文化が誕生。その理由は、音楽性と精神性の両面で、パンクは本質的にメジャーとは相反するものであること、メジャーへのカウンターとして、個性的かつマイナーな音楽を支持するリスナー層が形成されていたこと、などが挙げられます。

 こうしてイギリスでは、1970年代後半から、パンクやポストパンクをリリースするインディペンデント・レーベルが、次々と起こります。ベガーズ・バンケット、ラフ・トレード、チェリーレッド、ファクトリー、4ADの各レーベルは、1977年から1979年にかけて設立。その後のイギリスのポピュラー音楽史においても、重要な役割を果たす多くのレーベルが、この時期に活動を始めています。

アメリカでのインディー・レーベルの隆盛

 同じような動きは、アメリカでも起こります。パンク的なDIY精神を持った、あるいはアングラ志向の音楽を目指すバンドが増加し、各地でメジャー的な音楽とは一線を画したシーンが誕生。同時に、それらの受け皿として、地域や音楽性に根ざしたレーベルが多数生まれます。

 イギリスでは、ベガーズ・バンケットやラフ・トレードをはじめ、レコード店がレーベルを開業する例が多かったのに対し、アメリカではバンド自身が設立、あるいは大学構内のカレッジラジオ局や、ファンによる同人誌(ファンジン)が母体となり、レーベルへと発展する例が多数でした。

 レコード店という既存の組織と販路を利用し、発展していったイギリス。有志が集ったコミュニティ単位で、発展していったアメリカ。多角的にいろいろな要素が絡んでいるため、このような差異が生まれた理由は、一言ではあらわせません。しかし、あえて理由をひとつ挙げるならば、アメリカの国土の広さです。

 イギリスでは、レコード・ショップが立ち上げたレーベル同士が協力し、各地のショップを繋いで、独自の販路を構築することができました。それは、国土がコンパクトだったからこそ、可能だったこと。

 イギリスに比べて、遥かに広大な国土を持つアメリカでは、都市ごとの移動が容易ではありません。アメリカにも、レコード・ショップがレーベルを始めた例はいくつもありますが、比率にすると小さいものでした。その理由のひとつは、小規模な地方のレコード店同士が提携しにくく、ショップがレーベルを始めるメリットが少ないためでしょう。

 また、インターネットが普及した現在と比較すると、当時は情報が伝わる量は格段に少なく、スピードも遅かったはず。物理的な距離が、文化的な違いを生み出し、それぞれの街ごとに、独特な音楽文化を育むことになったのではないでしょうか。

 こうしてアメリカでは、メジャーとインディーズの差が、イギリス以上にクッキリと分かれていきます。1980年代に入ると、メジャー・レーベルはMTVと全米規模の流通網を用いてメガヒットを飛ばし、インディー・レーベルは各地で個性的な音楽を発展させていくことになるのです。

 もうひとつ、ロンドン・パンクとニューヨーク・パンクについて、相違点を指摘しておきます。政治的に反抗的なロンドンに対し、音楽的に反抗的なニューヨーク。両者には、精神性にもこのような違いがありました。

 ピストルズをはじめとした初期ロンドン・パンクのバンドは、既存の社会制度や政治体制への批判が、音楽自体よりも前景化されていました。ピストルズの「Anarchy in the U.K.」や、ザ・クラッシュの「White Riot」は、特に象徴的。既存の体制への反抗心が、音楽への大きなモチベーションになっています。

 それに対してニューヨーク・パンクのバンドは、社会の制度ではなく、音楽の制度へ反抗的な態度をとっています。あくまで音楽的にはシンプルなロックンロールを下敷きにしているロンドン・パンクに対し、テレヴィジョンやトーキング・ヘッズなどニューヨークのバンドは、内省的な歌詞や非ロック的なリズムの導入など、既存のメジャー路線のポップスには背を向け、芸術的なこだわりを見せています。

 彼らがこのような音楽を志した理由のひとつとして、タブーに挑んだ歌詞と、不協和音を用いた実験性の高い音楽を志向した、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからの影響が、少なからずあるでしょう。

 音楽的に反抗心を見せることに、軸足を置くバンドが多い、ニューヨーク・パンク。そのため、ニューヨーク・パンクに分類されるバンドは、ロンドン・パンクと比較して、音楽性が多岐に渡ります。

 前述したラモーンズ、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズに加え、ロンドン・パンクに近い質感のニューヨーク・ドールズ(New York Dolls)、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ(Johnny Thunders & The Heartbreakers)、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ(Richard Hell & The Voidoids)、詩人としても活躍したパティ・スミス(Patti Smith)、ニュー・ウェイヴ色の濃いブロンディ(Blondie)やスーサイド(Suicide)などなど。

 もちろん、ロンドン・パンクのザ・クラッシュが徐々にレゲエに接近したり、ニューヨーク・パンクのラモーンズがシンプルな3コードのロックを極めたりと、必ずしも「ロンドンとニューヨーク」「芸術性と政治性」といった二項対立で、単純化できる話題ではありません。

 しかし、大きな流れとして、ロンドンとニューヨークにおける精神性の違いを指摘しておくことは、その後のインディー・ロックへの流れをつかむ上でも参考になるため、ここで取り上げました。

パンクからの派生 (1970年代後半〜)

 次に、パンクが生まれ、やがて多様なジャンルへと発展していく過程を、振り返りましょう。

 ピストルズがシングル『Anarchy in the U.K.』で、1976年にメジャー・デビューしたあたりから、世界的に広がったパンク・ムーヴメント。その後、パンクは沈静化に向かい、ニュー・ウェイヴやポストパンクなど、様々なジャンルへと枝分かれしていきます。

 パンク・ロック、特にイギリスのロンドンで生まれたセックス・ピストルズの衝撃は凄まじく、音楽のみならずファッションも含めたムーヴメントとして、世界中でセンセーションを巻き起こしました。しかし、メンバー間およびマネージャーのマルコム・マクラーレンの人間関係の悪化により、バンドは空中分解。

 ちなみにマルコム・マクラーレンは、1974年に渡米した際、ニューヨーク・ドールズと出会い、彼らの非公式なマネージャーに就任。ニューヨーク・ドールズは2年後の1976年に解散してしまいますが、マクラーレンは当時のニューヨーク・パンクに多大な影響を受け、のちのピストルズ結成へと繋がったと言われています。

 1978年の実質的なピストルズ解散に呼応するように、パンク・ムーヴメントも終息に向かいます。その後、イギリスではロンドン・パンクの影響を受けつつ、電子楽器やダンス・ビートを取り入れた、ニュー・ウェーヴやポストパンクが勃興。新たな時代に入ります。

 話をアメリカに戻しましょう。ロンドン・パンクほどは、世界的にセンセーションを巻き起こすことはなかったニューヨーク・パンクですが、パンクからポストパンクへという流れは、ここアメリカでも起こります。というより、テレヴィジョンやトーキング・ヘッズなどは、元々シンプルなパンク・ロックの範疇には、収まりきらない音楽性を持っていた、とも言えるでしょう。

 パンクの攻撃性をさらに先鋭化させたハードコア・パンク、レゲエやファンクを取り入れたポストパンク、実験性とアート性を増したノー・ウェーブ、ディスコや電子音楽に接近したニュー・ウェーヴ、といった具合に次々と新しい音楽を志向するバンドが、全米各地に生まれます。

 そして、メジャー・レーベルには受け入れらない、そもそも当人たちがメジャーと契約して大ヒットを飛ばすことを目指さないバンドたちの受け皿として、各地にジャンルや地域に特化した、個性的なインディー・レーベルが生まれていくのです。

ロック誕生からUSインディーまでの流れ

 では最後に、ロックが誕生してから、USインディー・レーベルが生まれるまでの過程を、ざっとまとめておきます。

 まず1950年代にロックンロールが誕生。その後、1960年代に入ると、イギリスのビートルズやローリング・ストーンズの活躍により、商業的にも音楽的にも、ロックの影響力が拡大。この時期に、ロックンロールは、単に「ロック」と呼ばれるようになります。

 さらに1960年代から1970年代にかけて、フォーク・ロック、ガレージ・ロック、サイケデリック・ロック、ハード・ロック、プログレッシブ・ロックなど、多くの派生ジャンルが生まれ、ロックの人気と影響力はますます増加。

 それと並行して、地下水脈のように、前述のヴェルヴェット・アンダーグラウンドや、ニューヨーク・パンクに括られる一連のバンドも誕生。拡大を続けるロック産業の裏で、メジャー・レーベルの枠には収まらない、豊かな音楽が育まれていきます。

 あまり話を単純化しすぎるのは良くありませんが、補助線として、具体的なバンド名を挙げながら、いくつかの流れも示しておきたいと思います。

 まず、60年代のMC5やザ・ストゥージズ等のガレージ・バンドから、ラモーンズ、その後のハードコア・パンクへと繋がる、攻撃性やシンプリシティを引き継いでいく流れ。ジャンルで示すと、以下になります。
 ガレージ・ロック→ニューヨーク・パンク→ポストパンク、ハードコア、ポスト・ハードコアなど

 そして、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドから始まり、テレヴィジョンへ、さらにソニック・ユースへと繋がっていく流れ。ジャンルで示すと下記のとおり。
 アート・ロック→ニューヨーク・パンク→ノー・ウェーブ、ノイズ・ロックなど

 もちろん、これは恣意的な例であり、単純化して示そうと思えば、いくらでも示せるものです。重要なのは、このような縦線の流れが、いくつも存在し、多くの個性的な音楽とジャンルが生まれたということ。

 地上ではメジャー・レーベルの資本による、ビッグ・ヒットが生み出され、わかりやすい大きな歴史が書かれるのに対して、地下では脈々と、無数の小さな歴史が生まれていたのです。USインディー・ロックの魅力のひとつは、この多様性にあります。

ディスク・ガイド

 このページで取り上げたバンド、および関連バンドのディスクガイドです。

The Velvet Underground “The Velvet Underground And Nico” (1967 Verve)

ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』 (1967年 ヴァーヴ)

 1967年に発売された、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー・アルバム。芸術家のアンディ・ウォーホルが、プロデューサーを務めています。ヴェルヴェッツという略称で呼ばれることもあります。

 アンディ・ウォーホルがプロデューサーとジャケットのデザインを務めたという話題性も含め、実験性とアート性を併せ持った本作は、その後のニューヨーク・パンク、ノー・ウェーブ等へ直接的に繋がるアルバム、と言ってよいでしょう。

 わかりやすく爆音ノイズや不協和音を鳴らすのではなく、ゆったりとしたテンポに乗せて、静かに壊れていくような音楽性と、当時のタブーに挑んだ内省的な歌詞が、本作の魅力。

 


The Stooges “The Stooges” (1969 Elektra)

ザ・ストゥージズ 『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』 (1969年 エレクトラ)

 イギー・ポップが在籍したガレージロック・バンド、ストゥージズのデビュー・アルバム。プロデューサーを務めるのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル。

 ガレージ・ロックかくあるべし!と言いたくなる、ざらついたサウンドで、ドタバタ感のある立体的なアンサンブルが展開される本作。音圧の高い現代的なハイファイ・サウンドと比較すると、迫力不足に感じられるかもしれませんが、初期衝動をそのまま音に変換したようなプリミティヴなサウンドは唯一無比。

 その後のパンク・バンドに、多大な影響を与えました。4曲目の「No Fun」は、セックス・ピストルズがカバーしています。ピストルズによるカバーは、元々はシングル『Pretty Vacant』のB面に収録。現在はアルバム『Never Mind The Bollocks, Here’s The Sex Pistols』に、ボーナス・トラックとして収録されています。

 


Ramones “Ramones” (1976 Sire)

ラモーンズ 『ラモーンズの激情』 (1976年 サイアー)

 ラモーンズのデビュー・アルバム。ニューヨーク・パンクに括られるバンドには、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響がにじむ、アート志向のバンドが多いのですが、ラモーンズはロックのシンプリシティを追求し続けたバンド。

 3コードのシンプルな進行、キャッチーなメロディー、英和辞典が無くとも理解できる親しみやすい歌詞。ロックンロールの魅力と快楽が、凝縮された音楽を作り続けました。

 1stアルバムである本作にも、1曲目「Blitzkrieg Bop」、3曲目「Judy Is A Punk」、4曲目「I Wanna Be Your Boyfriend」など、名曲を多数収録。

 


Television “Marquee Moon” (1977 Elektra)

テレヴィジョン 『マーキー・ムーン』 (1977年 エレクトラ)

 1973年に結成されたバンド、テレヴィジョンのデビュー・アルバム。ラモーンズと同じくニューヨーク出身ながら、その音楽性は大きく異なります。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやアヴァンギャルド・ジャズからの影響が強く、各楽器が複雑に絡み合うアンサンブルと、時に激しく唸りをあげ、時にアヴァンギャルドなフレーズを繰り出すギターが耳を掴みます。

 歌詞とサウンドの両面から、知性と狂気がにじみ出る、ニューヨークのアングラらしい質を備えた名盤。

 


Talking Heads “Talking Heads: 77” (1977 Sire)

トーキング・ヘッズ 『サイコ・キラー’77』 (1977年 サイアー)

 ニューヨーク・パンクに属するバンドのひとつに目される、トーキング・ヘッズの1stアルバム。しかし、ニューヨーク・パンクに分類される他のバンドにも言えることですが、シンプルなロックンロールを下敷きにしたパンクというより、ニュー・ウェイヴやポストパンクに近い音楽性を持っています。

 本作も、8ビートやディストーション・ギターなどの分かりやすいロック色は薄く、リズム構造もアンサンブルも、より複雑で立体的。クセのあるリズムと、ねじれたアンサンブル、演劇じみたボーカルなど、知性と実験性を含んだ音楽を展開しています。

 


Talking Heads “Remain In Light” (1980 Sire)

トーキング・ヘッズ 『リメイン・イン・ライト』 (1980年 サイアー)

 トーキング・ヘッズの4thアルバム。1stアルバムから比較して、ロック色はさらに後退。ニュー・ウェイヴやポストパンクも飛び越えて、ワールド・ミュージックおよび伝統音楽からの影響が強く出た、非ロック的な音楽を繰り広げています。

 多種多様なリズムが取り込まれ、4人組のバンドのフォーマットに消化され躍動する本作は、今聴いても十分にオリジナルで刺激的。トライバルなリズムに、西洋音楽的なコーラスワークが重なり、ダンス・ミュージックとしても、新しいロックとしても秀逸。

 小刻みなリズムに、多層的に楽器とコーラスが重なっていく、3曲目「The Great Curve」など、本当に最高です!

 


Sex Pistols “Never Mind The Bollocks Here’s The Sex Pistols” (1977 Virgin)

セックス・ピストルズ 『勝手にしやがれ!!』 (1977年 ヴァージン)

 ロンドン・パンクのみならず、パンク・ロックを象徴するバンドと言っても過言ではない、ピストルズが残した唯一のオリジナル・アルバム。

 音楽的には、3コードを基本としたシンプルなロック。ハード・ロックに比べて音もしょぼいし、プログレッシブ・ロックに比べてテクニックは稚拙。初めて聴いたときは、このバンドがどうして、伝説的な存在なんだろう?と不思議に思ったものです。

 しかし、しばらく聴いていると、演奏からにじみ出る、怒りや苛立ちなど溢れ出るエモーションに圧倒され、いつの間にか虜になっていました。音楽には、感情を伝える力があり、楽譜にあらわせないテクニックがあるということを、教えてくれる1枚。ジョニー・ロットンの癖のあるボーカルも唯一無比。

 


The Clash “The Clash” (1977 CBS)

ザ・クラッシュ 『白い暴動』 (1977年 CBS)

 ピストルズと並び、ロンドン・パンクを代表するバンド、ザ・クラッシュの1stアルバム。リリースしたオリジナル・アルバムは1枚、実質2年ほどの活動期間で解散したピストルズに対し、クラッシュは6枚のアルバムをリリース。

 シンプルなロックンロールからスタートしながら、徐々に多様なジャンルを取り込み、キャリアを通して音楽性を広げていきました。

 本作は、デビュー・アルバムらしく疾走感に溢れ、歌詞にはダイレクトなメッセージが並びます。ピストルズの『Never Mind The Bollocks Here’s The Sex Pistols』と並び、聴き手をアジテートする力に満ちた名盤。

 


The Damned “Damned Damned Damned” (1977 Stiff)

ダムド 『地獄に堕ちた野郎ども』 (1977年 スティッフ)

 ピストルズ、クラッシュと共に、ロンドン・パンクの三大バンドに数えられるダムドの1stアルバム。現在の地名度は、ピストルズとクラッシュに比べて劣るものの、1976年にこれら3バンドの中でいち早くシングルをリリースしたのは、このダムドです。

 シンプルなリズム構造とコード進行に、過激な歌詞が重なり、初期パンクの魅力を存分に持った1作。

 

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James White & The Blacks “Off White” / ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス『オフ・ホワイト』


James White & The Blacks “Off White”

ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス 『オフ・ホワイト』
発売: 1979年
レーベル: ZE Records (ZEレコード)
プロデュース: Bob Blank (ボブ・ブランク)

 ジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックスの1979年リリースの1stアルバム。

 1970年代後半にニューヨークで起こった、ノー・ウェーヴを代表するバンドのひとつ、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ(James Chance & The Contortions)の変名バンドです。

 本作のリリース元でもあり、ノー・ウェーヴ周辺のバンドの作品を多数リリースしていたインディーズ・レーベル、ZEレコード。同レーベルの設立者の1人であるマイケル・ジルカ(Michael Zilkha)が、ノー・ウェーヴではなく、ディスコのアルバムの制作を、ジェームス・チャンスに提案。

 ジェームス・チャンスのマネージャーであり、当時の恋人だったアーニャ・フィリップス(Anya Phillips)が、変名を用いることを思いつき、すでにアルバム1枚をリリースしていたコントーションズ名義ではなく、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ名義でのリリースとなりました。

 このような経緯で制作されたアルバムのため、当然ながらバンド名だけでなく、音楽性もコントーションズとは明らかに異なります。ただ、本作が純粋なディスコ・アルバムかというと、そうでもなく、コントーションズに通じる実験性を、多分に含んではいるのですが。

 1曲目「Contort Yourself (August Darnell Remix)」は、引き締まったリズムが刻まれる、タイトなディスコ・ソング。ディスコと呼ぶには、装飾や音数が少なく、シンプルですが、画一的なリズムと、動き回るベースラインは、コントーションズには無いダンス要素を持っています。

 リミックス担当としてクレジットされているオーガスト・ダーネル(August Darnell)は、キッド・クレオール(Kid Creole)というステージ・ネームでも知られ、当時はZEレコードのプロデューサーも務めていました。

 2曲目は「Contort Yourself」。タイトルから分かるとおり、1曲目の別バージョンです。1979年にリリースされたLP版、および1995年の初CD化された盤には収録されていませんでしたが、2004年にCDが再発される際に追加され、現在は各種サブスクリプション・サービスでも聴くことができます。

 タイトなリズムや全体のグルーヴ感など、もちろん楽曲の大枠は変わりませんが、1曲目のバージョンと比較すると、よりバンドの演奏が前面に出たバランスのミックスとなっています。

 3曲目「Stained Sheets」は、ミドルテンポの中をサックスやベースの音が漂い、電話の「リリリリーーン」という音も飛び道具的に挿入される、フリージャズ色の濃い1曲。

 4曲目「(Tropical) Heatwave」は、曲名のとおりトロピカルで軽快なリズムを持った、カラフルな1曲。ドラムは、細かいリズムから、叩きつけるようなパワフルなリズムまで多彩。実験性とポップさを併せ持っています。

 6曲目「White Savages」は、鋭く小刻みに刻まれるドラムのリズムと、野太いベース、アヴァンギャルドなサックスとギターが絡み合い、フリージャズとディスコが融合した1曲。

 7曲目「Off Black」は、多様な音が飛び交い、アヴァンギャルドな空気が充満したアンサンブル。ドラムは立体的にリズムを刻み、かろうじてディスコの要素が感じられます。

 9曲目「White Devil」では、グルーヴ感のあるリズム隊の上に、フリーなギターとサックスのフレーズが乗っかり、フリージャズの実験性と、ダンサブルなリズムが溶け合った演奏が展開していきます。

 前述のとおり、ノー・ウェーヴを代表するバンド、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズのメンバーが、ディスコを意識した音楽を作り上げた本作。

 より実験性の強いコントーションズ名義の楽曲と比べれば、確かにディスコの要素は感じられるものの、いわゆるディスコ・サウンドからは離れたアレンジとサウンドを持ったアルバムです。やや、ビートと楽曲構造のハッキリしたコントーションズ、と説明した方が適切でしょう。

 ダンス要素を求めて本作を手に取る方は、そんなにいらっしゃらないとは思いますが、やはりアヴァンギャルドなアレンジが前面に出た作品ですので、ディスコと思って聴くのには、注意が必要です。

 いずれにしても純粋なディスコ的音楽ではありませんが、グルーヴィーなリズムと、アヴァンギャルドなフレーズが溶け合う、スリリングな音楽です。

 





James Chance & The Contortions “Buy” / ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ『バイ』


James Chance & The Contortions “Buy”

ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズ 『バイ』
発売: 1979年
レーベル: ZE Records (ZEレコード)
プロデュース: James White (ジェームス・ホワイト)

  ブライアン・イーノ(Brian Eno)がプロデュースを担当し、ノー・ウェーヴを世界に知らしめたコンピレーション『No New York』。同作にも参加し、ノー・ウェーヴを代表するバンドのひとつと目される、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズの1stアルバムです。

 ニューヨーク・パンクの実験性をさらに推し進めた、ノー・ウェーヴ(No Wave)のムーヴメント。しかし、コントーションズを率いるジェームス・チャンスは、実はニューヨークではなく、ウィスコンシン州ミルウォーキーの出身。

 ミルウォーキーで生まれ育った彼は、高校を卒業すると、ウィスコンシン音楽院(Wisconsin Conservatory of Music)に入学。そこでバンドに参加し、ストゥージズ(the Stooges)やヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)のカバーを経験します。1975年に同校を退学し、ニューヨークへ。同地のフリー・ジャズとノー・ウェーヴの両シーンで、精力的に活動を開始します。

 バンドの中心メンバーといえば、ギターとボーカルを担当しているのが定番。しかし、ジェームス・チャンスは、サックスとキーボード、ボーカルを兼任しています。

 サックス奏者であることが、まず示唆的ですが、本作ではジャズとロックが融合し、ニューヨークのアンダーグラウンド文化らしい、実験的なサウンドが展開されています。

 1曲目「Design To Kill」から、フリージャズの影響が顕著な、サックスとギターの意外性に飛んだフレーズが飛び交います。しかし、リズム隊にはファンクを思わせるタイトさとグルーヴ感あり。やや演劇じみたボーカルは、浮かび上がるような自由なフレーズを繰り出し、多様な音楽ジャンルがごった煮になった1曲です。

 しかし、このアルバム全体の言えることですが、実験的で敷居の高い音楽かというと、決してそうではなく、ポップさも兼ね備えた音楽が繰り広げられます。

 2曲目「My Infatuation」は、トライバルで立体的なドラムと、チューニングが狂っているんじゃないかとさえ思うギター、おもちゃのようなサックスの音が重なり、アヴァンギャルドな1曲。実験性は非常に高いのですが、多様な音が飛び交い、カラフルなサウンドを持っていて、騒がしくもポップな楽曲です。

 3曲目「I Don’t Want To Be Happy」は、これまたチューニングに違和感を覚えるぐらい、自由なフレーズが飛び交う1曲。めちゃくちゃなことをやっているようで、全ての楽器がいつの間にか溶け合い、アンサンブルが浮かび上がってくるから不思議です。

 4曲目「Anesthetic」は、音数が絞られ、メロウな雰囲気も漂う、ジャズ色の濃い1曲。ですが、当時のフリージャズとも異なる、ジャンクな響きを持ったアレンジです。

 5曲目「Contort Yourself」は、リズム隊がタイトにリズムを刻む、疾走感に溢れた1曲。

 6曲目「Throw Me Away」は、音が重なっていくのか、バラバラにほどけるのか、バランスが絶妙で、スリリングな演奏が繰り広げられる1曲。

 9曲目は「Bedroom Athlete」。イントロでは、壊れたバネのように楽器の音が揺れ、アヴァンギャルドな空気が充満していますが、ボーカルが入る頃には、タイトに絞り込まれたアンサンブルが展開していきます。

 ノー・ウェーヴというと、このバンドに限らず、奇をてらい過ぎる一面がありますが、決して「実験のための実験」に陥っているわけではなく、今聴いても十分に刺激的です。いや、折衷的でよくできた音楽が増えた今だからこそ、刺激的に響くと言ってもいいでしょう。

 コントーションズの音楽性をざっくりと説明すれば、フリージャズとロックの融合ということになりますが、フリージャズの先進性、パンクやロックの攻撃性、ファンクのグルーヴ感などが雑多に混じり合った、面白い音楽です。

 ちなみに本作で、プロデューサーとしてクレジットされているジェームス・ホワイトとは、ジェームス・チャンスの別名です。彼の本名は、ジェームス・ジークフリード(James Siegfried)。

 





Adam Stephens “We Live On Cliffs” / アダム・スティーヴンス『ウィー・リヴ・オン・クリフス』


Adam Stephens “We Live On Cliffs”

アダム・スティーヴンス 『ウィー・リヴ・オン・クリフス』
発売: 2010年9月28日
レーベル: Saddle Creek (サドル・クリーク)
プロデュース: Joe Chiccarelli (ジョー・チッカレリ)

 カリフォルニア州サンフランシスコ出身の2ピース・バンド、トゥー・ギャランツのメンバーである、アダム・スティーヴンス初のソロ・アルバム。正式には、「アダム・ハワース・スティーヴンス」(Adam Haworth Stephens)名義でリリースされています。

 プロデュースを担当するのは、プロデューサーおよびエンジニアとして1970年代から活動し、グラミー受賞暦もあるジョー・チッカレリ。大御所からインディー系まで、多くの仕事をこなしてきたチッカレリですが、USインディー文脈の仕事だと、ストロークス(The Strokes)やザ・シンズ(The Shins)、ホワイト・ストライプス(The White Stripes)あたりが有名。

 2002年に結成されたトゥー・ギャランツは、フォークやブルースなどのルーツ・ミュージックを下敷きに、ロック的な躍動感や、オルタナやポストロックを思わせるアレンジを合わせた音楽を展開するバンド。本作は、トゥー・ギャランツが2008年から2012年にかけて、活動休止していた期間に制作されたアルバムです。

 2ピース・バンドのメンバーのソロ作ということで、もちろんメインのバンドであるトゥー・ギャランツと共通する要素を、多分に持っています。すなわち、ルーツ・ミュージックを、現代的に解釈した作風だということ。

 しかし、トゥー・ギャランツと全く同じというわけでは、もちろんありません。フォークやブルースを基調に、パンクの攻撃性やロックのグルーヴ感を合わせたトゥー・ギャランツと比較すると、本作はよりカントリー色の濃い、穏やかな音楽となっています。

 1曲目「Praises In Your Name」では、クリーン・トーンを主体としたサウンドで、徐々に躍動感が増していくアンサンブルが展開します。再生時間1:07あたりからは、立体的に音が飛び交い、カラフルでグルーヴ感抜群の演奏。

 2曲目「Second Mind」は、各楽器が絡み合うように、ゆるやかなグルーヴ感が育まれていく1曲。柔らかなオルガンの音がアクセントになり、全体のサウンド・プロダクションを、ソフトにまとめています。

 3曲目「With Vengeance Come」では、ギターのアルペジオとボーカルのみから始まり、ピアノも加わって、音の粒が有機的にアンサンブルを組み上げていきます。

 7曲目「Elderwoods」は、静かなギターのフレーズから始まるものの、その後はざらついた歪みのギターが入り、穏やかなパートと、ハードなパートを行き来する1曲。

 9曲目「Everyday I Fall」は、イントロからヴィブラフォンらしき音が響き渡り、空気に浸透していくように、穏やかなサウンドを持っています。アンサンブルは、アコースティック・ギターを主軸に、カントリー色の濃い、いきいきとしたグルーヴ感を伴ったもの。

 オーバー・プロデュースにならず、シンプルなサウンドとアレンジを持ったアルバム。ですが、歌のメロディーのみが前景化されているわけではなく、ゆるやかに躍動するアンサンブルも心地よい1作です。

 また、楽器の種類と用いるサウンドは、それほど多いわけではないのに、カラフルで鮮やかなイメージの作品に仕上がっています。適材適所で、効果的に楽器を使い、シンプルながら音作りにもこだわっているのが、この多彩さの理由でしょう。

 フォークやカントリーの香りを漂わせながら、ギターポップのように爽やかな、耳なじみの良さがあります。

 バンドマンのソロ作は、そのメンバーがどのような音楽性を、バンドに持ち込んでいるのかが垣間見えるところも、面白いですね。